第2章
幸いにも、江原司は彼女の異変に気づかなかった。視線を落とし、またスマホに返事を打ち始める。
画面に並ぶ、あまりにも露骨なメッセージ。その一つ一つが、鋭い刃になって安野香苗の胸へ突き刺さった。
唇を噛み切りそうになるのを、どうにか堪える。今ここで問い詰めてはいけない。
「司!」
安野香苗は拳を強く握りしめ、胸の奥からせり上がる吐き気を押し殺しながら、震える声を絞り出した。
「目が……すごく痛いの。少しだけ、光が見える気がする」
江原司ははっと顔を上げ、反射的にスマホの画面を消した。
「……何だって?」
診察を受けながら、安野香苗は何度も何度も心の中で言い聞かせる。
耐えなければ。
今、江原司に気づかれるわけにはいかない。
一刻も早くここを出るのだ。昼間から車の中であんな真似をするほど大胆なのだから、江原司と安野月子が陰で関係を続けていた期間など、考えるだけでもぞっとする。
江原司は落ち着かない様子でそばに立ち、医師の診断結果を待っていた。
「先生、妻の目はどうなんです? 本当に回復してるんですか?」
「現時点で見るかぎり、症状は改善傾向にあります」
医師が言い終えるより早く、安野香苗が口を開く。
「輪郭くらいなら分かります。ひとりで身の回りのこともできます。あなた、今日ここにいるなら、退院の手続きをして」
帰らなければならない。精神病院に一日だっていたくない。この数年、我が子がどんな日々を送ってきたのか――想像するだけで息が詰まる。
江原司が何かと理由をつけて自分を子どもに会わせなかったのは、きっと別の理由がある。
江原司の表情がこわばる。なおも食い下がろうとして、口を開いた。
「でも、外は――」
安野香苗は、どこか焦点の定まらない目で彼を見つめた。
「さっき約束したよね。目が治ったら家に帰れるって。……私を騙すの?」
その一言に、江原司は言葉を失った。
短く逡巡した末、結局は安野香苗の退院手続きを進めるしかなかった。
だが、帰りの車中で、彼は探るように問いかけてくる。
「香苗。目が見えるようになったのは、いつからなんだ?」
安野月子とのことを、見られたのかどうか。それが知りたいのだ。
「ベンチに座ってたときからかな」
安野香苗は微笑んで答えた。江原司が何を探っているのか、分からないはずがない。
何かに気づいたかどうか。それを確かめたいだけ。
彼女は平静を装い、少し虚ろな目で前を向いたまま、帰宅を心待ちにする妻のように、唇の端に淡い笑みを浮かべる。
江原司は運転しながら、横目で彼女の様子を窺っていた。
その目の奥には、重たい疑念が沈んでいる。安野香苗の言葉が本当かどうか、見極められないのだろう。
――帰ってから、しばらく様子を見るつもりね。
窓の外の景色が勢いよく流れていく。びゅうびゅうと鳴る風が目を刺激し、安野香苗は痛みに小さくまばたいた。胸の奥の酸っぱさを、無理やり押し込める。
やがて車は、江原家の門前に滑り込んだ。
「香苗、先に俺が行って、子どもに一声かけてくるよ。いきなりお前が現れたら、驚かせるかもしれない」
そう言って、江原司は先に車を降りる。
だが安野香苗もすぐにドアを開けた。
「私も一緒に入る。もう何年も翔太に会ってないの。会いたくてたまらない」
きっぱりと言い切り、反論の隙すら与えず、彼女は玄関の方向を探って歩き出した。
先に入るつもりだったのは、何か口裏を合わせるため――?
江原司の顔色が変わり、慌てて後を追う。
リビングへ足を踏み入れた瞬間、安野香苗の全身が強張った。
目に入ったのは、扇情的なネグリジェ姿の安野月子。
ここは自分と江原司の家のはずなのに、安野月子はまるで当然のように、女主人の顔でそこに立っていた。
――いつから?
安野月子も安野香苗の姿を見て、一瞬だけ狼狽と驚きを浮かべる。
「どうして……」
言いかけた言葉を、江原司の鋭い視線が遮った。
「香苗の目がだいぶ良くなってきたんだ。だから退院させた」
そう説明してから、今度は安野香苗に向き直る。
「この二日、翔太が少し熱を出しててさ。俺は仕事で手が離せなかったから、月子に来てもらって面倒を見てもらってたんだ。お前がいない間も、月子がずっと助けてくれてた。だから、変に考えないでくれ」
穏やかで優しい声。
もし自分の目で見ていなければ、また騙されていたかもしれない。
「……そう」
安野香苗は低く応じ、目の奥の嘲りを押し隠す。
本当に、子どもの世話をしに来ていただけ?
そのとき、壁に掛かった一枚の写真が目に入った。安野香苗の顔が凍りつく。
そこには、安野月子と江原司が愛らしい子どもを囲み、仲睦まじく笑っていた。
知らない人が見れば、きっと誰もが思うだろう。これが幸せな一家三人だと。
「司。あそこに……何か飾ってあるの?」
感情を押し殺し、安野香苗は不確かな調子で尋ねた。
江原司は何気ないふうを装って一歩前に出て、その写真を隠した。
「ああ、翔太が描いた絵だよ。せっかくだから飾ってるんだ」
今日いきなり退院するなど思っていなかったのだろう。家の中を片づける暇もなかったに違いない。
安野香苗は、少し嬉しそうに微笑んでみせる。
「そうなんだ。残念……ちゃんと見えたら、ゆっくり見たかったのに」
その声には、本当に惜しむような響きを混ぜた。
江原司は彼女の表情を確かめ、それから安野月子へ目をやる。安野月子はすぐに歩み寄り、親しげに安野香苗の腕へ手を絡めた。
「お姉ちゃん、そんなに落ち込まないで。翔太は本当にいい子だから、目がもっと良くなったら、いくらでも見られるよ」
甘く柔らかな声。まるで心から喜んでいる妹のように。
安野香苗はさりげなく腕を引き、髪を整えるふりで触れられた感触を払う。
「翔太は? 熱があるって言ってたよね。会いたいの」
十月十日、自分のお腹で育てて産んだ子だ。今はただ、その子の顔が見たい。
安野月子の顔に、一瞬だけ怒りが走る。安野香苗からは見えない角度で、無言の悪態を吐いた。
――空気も読めない女。
江原司の顔も引きつった。
「香苗、お前は帰ってきたばかりだろ。まずは休んだほうがいい。翔太は具合が悪いんだ。少し良くなったら、そのとき会わせるから」
そう言って、彼は安野香苗を二階へ促そうとした。
そのときだった。外から車の音がして、次の瞬間、ランドセルを背負った綺麗な男の子が駆け込んでくる。そしてまっすぐ安野月子の胸へ飛びついた。
「お母さん! 今日、馬術大会で1位だったんだ! 先生が才能あるって! 何かご褒美くれる?」
「翔太!」
江原司の顔色が変わる。止めようとしたが、遅かった。
安野香苗は、その場で足を止めた。安野月子に抱きつく子どもを、まっすぐ見つめる。
翔太。
あれが、自分の子。
写真の中の子と同じ顔。見間違えるはずがない。あれが、自分が命がけで産んだ息子なのに――
その子は今、安野月子を「お母さん」と呼んでいる。
江原司たちが取り繕う前に、安野香苗は先に声を上げた。
「翔太……? 私はあなたのお母さんよ」
安野月子の手が、翔太の頭の上でぴたりと止まる。
小さな翔太はそこで初めて安野香苗の存在に気づいたらしい。警戒するように安野月子のそばへ下がり、その目にじわじわと防備の色が浮かぶ。
「だれ? なんでうちにいるの? ぼくにはお母さんがいるのに、なんであなたをお母さんって呼ばなきゃいけないの?」
立て続けの三つの問い。
どれもが刃になって、安野香苗を深く切り裂いた。
さっきまで安野月子へ向けていた、あの親しさも信頼も、ここには一つもない。
それでも彼女は、必死に笑顔を作る。
「本当にお母さんなの。ただ、ずっと病気で入院してたから、会えなかっただけ」
「こっちに来て、抱っこさせてくれる? 具合が悪いんでしょう。少しはよくなった?」
翔太はなおも不思議そうに彼女を見つめ、さらに一歩後ずさった。
「ぼく、病気じゃないよ? 毎日水泳の練習してるし」
江原司は一瞬で気まずそうな顔になり、慌てて翔太の前へ立つ。
「香苗、気持ちは分かる。でも、子どものことも考えてやらないと。お前が長いこと入院してたんだ。急に母親だって言われても、受け止められるわけがない。まずは少しずつ、お前のことを慣れさせていこう」
安野月子もすぐに口を挟んだ。
「そうだよ、お姉ちゃん。翔太は生まれてから一度もお母さんに会ったことがなかったんだもん。急に戻ってきたら、びっくりしちゃうよ。この子、ずっと私に懐いてたから、もうお母さんだと思って呼び慣れちゃってるの」
言い終えると、安野月子は翔太の手を取って話題を変える。
「そうだ、前に裏庭で植えた花、咲いてたよ。お母さんと一緒に見に行こっか?」
翔太は素直にうなずいた。
「うん」
安野月子には無条件の信頼。自分には、全身を覆う警戒と戸惑い。
その差が痛すぎて、安野香苗は一言も出せなかった。胸が締めつけられ、足元までぐらつく。
自分が信じ、頼りきっていた夫が、自分の異母妹と一緒に、自分の子の父と母を演じていた。
なんて滑稽で、なんて残酷なのだろう。
江原司が慌てて取り繕う。
「香苗、少し時間をやってくれ。翔太も、きっとお前を母親として受け入れるようになる」
安野香苗は、焦点の合わない目で彼を見上げた。
「……あなた、一度も翔太に言ってなかったの? 私が本当の母親だって」
その問いに、江原司は言葉を失う。
安野香苗はまだはっきりとは見えていない。そう分かっているはずなのに、彼は思わず目を逸らした。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
安野香苗の心が、さらに深く沈んでいく。
彼女はもう江原司を見なかった。身を翻し、手すりを頼りに二階へ上がる。そして窓辺に立ち、庭を見下ろす。
庭では、安野月子と翔太が穏やかな空気の中で寄り添っていた。翔太の顔には、眩しいほどの笑みが咲いている。
その笑顔が、また一度、安野香苗の目を刺した。
