第4章
どれだけ堪えても、声にはなお怒りが滲んだ。
「翔太は、私が十月十日お腹の中で育てて、命がけで産んだ子よ。あの子の母親は、私一人だけ!」
自分に向けられた、あの嫌悪と警戒に満ちた目を思い出すだけで、安野香苗の胸は煮えた油を浴びせられたように焼けつく。
「どうして翔太に本当のことを話させてくれないの? 翔太が受け止めきれないのが心配なの。それとも、何か別の狙いがあるの?」
安野香苗は震える声で問いただした。指が掌に食い込むほど強く握りしめ、辛うじてその場で江原司と完全に決裂するのを堪える。
「香苗、変なこと言うな」
江原司は一瞬、険しく顔を曇らせた。だがすぐに、取り繕うように穏やかな表情へ戻る。
「俺はただ、子どもが急には受け止めきれないと思っただけだ。本当のことは、いずれ機会を見て話せばいい」
怒りを湛えながら、どこか虚ろでもある香苗の瞳を見つめつつ、江原司の胸の内では打算がいくつも巡っていた。
「お前は出産してすぐにあんなことになっただろ。守るために、仕方なく病院へ入れたんだ。俺は仕事で手いっぱいだったし、翔太には世話が必要だった。月子が助けてくれたからこそ、あの子は元気に育った。お前も俺も、月子には感謝するべきなんだよ」
――よくもそんなデタラメが言えたもんだな。
その言葉を聞いた瞬間、安野香苗の体は怒りでぶるぶると震え出した。
「……だから、その恩返しに、私の代わりをやらせたっていうの?」
自分を陥れた張本人たちが、今度は恩人の顔をして感謝まで強いてくる。しかも、十月十日かけて産んだ実の息子にまで嘘を吹き込み、仇を母親だと思わせている。あまりにも皮肉で、あまりにも狂っていた。
「香苗、考えすぎだ。翔太は月子をよく見てきたから、自然と母親だと思い込んでるだけだ。お前が帰ってきたんだ。これから少しずつ慣れていけばいい」
江原司は香苗の手を取り、寝室へ導いた。
「目だって、やっと回復の兆しが見えてきたばかりなんだ。余計なことは考えず、しっかり休め」
そのままベッドに腰を下ろさせ、肩を軽く押さえる。
「いい子だから。俺はまだ仕事がある。今夜は書斎で寝るよ。遅くなると、お前の休みを邪魔するだろ」
その立ち居振る舞いのすべてが、まるで優しい夫そのものだった。
けれど、男が部屋を出ていった瞬間、安野香苗の顔から温度が消えた。
その夜、彼女はベッドの上で何度も寝返りを打ち、ついに一睡もできなかった。
この家に帰りたいと、五年間ずっと願い続けてきた。なのに、待っていたのは江原司の裏切りだった。
大学を出てすぐ、彼と結婚した。あの頃の二人は確かに愛し合っていた。だからこそ、自分はようやく救われたのだと信じていたのに。
だが現実は、容赦なく頭を殴りつけてきた。
実の息子は愛人を母と呼び、自分の目は愛した夫に毒で奪われた。
――この恨み、絶対に晴らす。
まだ揺らいでいた眼差しが、少しずつ硬質な光を宿していく。安野香苗はゆっくり身を起こし、紙とペンを探し出した。何度も書き直しながら、計画を一枚の紙いっぱいに書き連ねていく。
長すぎる空白のせいで、外の世界から取り残されてしまった。まずは、この数年で何がどう変わったのかを知る必要がある。
書き終えた紙を細かく破り、トイレへ流してから、ようやくもう一度ベッドへ戻った。
翌朝。
安野香苗は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
ベッド脇には江原司が立っている。手には、温かな牛乳の入ったグラス。だが、その目の底にあった冷たさは、彼女が目を覚ました瞬間、たちまち柔らかな色へ塗り替えられた。
「香苗、起きたか」
安野香苗は唇を噛み、動揺を押し殺すように目を細める。まるで慎重に見定めるように、彼のほうを向いた。
「……司?」
江原司は微笑み、グラスを差し出す。
「牛乳だ。さっき温めた」
優しく気遣うような声。けれど、その響きがかえって背筋を冷やした。
耳の奥では、昨夜聞いた会話が何度も蘇る。毒。薬。もう一度、自分を病院へ戻すつもりだという、あの言葉。
手の中のグラスが、たちまち焼けた凶器のように思えた。
「ちょっと……胃の調子が悪くて。牛乳の匂いを嗅ぐと、吐きそうになるの」
安野香苗はとっさに言い訳を作り、その場でえずいてみせた。信じ込ませるには、それがいちばん早い。
江原司は一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに目の奥の嫌悪を押し隠し、香苗の背をとんとんと撫でる。
「医者を呼ぶか? お前、体が弱ってるんだ。先生にも、毎日牛乳を飲ませるよう言われてる。ほら、いい子だから、先に飲め」
声音はあくまで穏やかだった。だがそこには、拒ませない硬さがある。
安野香苗はなおも断ろうとした。けれど、次の一言で喉が詰まる。
「早く良くなって、翔太に受け入れてほしくないのか?」
――子どもを盾にする気なの。
胸の奥で怒りが爆ぜる。それでも悟られてはならない。
安野香苗はグラスを持ち上げ、牛乳を一気に飲み干した。
それを見た江原司の口元が、満足げにわずかに歪む。
「昼間は家政婦に見させる。牛乳は朝晩ちゃんと飲めよ。会社に行かないといけないから、俺はもう出る」
そう言って、男は彼女の額へそっと口づけた。
部屋を出ていく気配が消えた瞬間、安野香苗は洗面所へ駆け込んだ。指を喉の奥へ突っ込み、胃の中のものをすべて吐き出す。何度も、何度も。
そのあと、江原司に触れられた額を、肌が赤くなるほど強く擦った。
あの男はまだ、優しい夫を演じ続けるつもりだ。ならば、こちらも焦るわけにはいかない。
鏡の中の自分を見つめ、安野香苗は目尻に溜まった涙を拭った。洗顔を済ませ、身支度を整えてから部屋を出る。
階下のリビングでは、翔太が一人で食卓についていた。
その顔立ちは、自分と江原司の美点だけを選び取ったように整っている。とりわけ、うるんだ大きな瞳は星屑を閉じ込めた川のようで、一目見ただけで心を奪われそうになる。
安野香苗は立ち尽くしたまま、その姿を見つめた。ようやく、ようやく会えた我が子。けれど拒まれるのが怖くて、足取りはひどく慎重になる。
「……翔太。ここ、座ってもいい?」
彼の隣の席を、そっと指さす。
翔太は彼女を見る。複雑な感情がその目に揺れた。それでも、小さく頷いた。
その一つの仕草だけで、安野香苗の胸はぱっと明るくなった。急いで隣へ腰を下ろす。
「翔太、よかったら今度、ママと一緒にお出かけしない?」
失ってしまった五年分を、少しずつでも取り戻したい。母と子として過ごせなかった時間を、これから埋めていきたかった。
けれど、翔太の返事を聞く前に、安野月子の声が割って入る。
「翔太、少し前にディズニーランドに行きたいって言ってたでしょう。ママ、今日は時間あるよ」
その言葉を聞いた瞬間、翔太は小鳥みたいにぱっと顔を輝かせ、安野月子の胸へ飛びついた。腕に頬をすり寄せながら、弾んだ声を上げる。
「ママ、やった! ママだいすき!」
安野月子は嬉しそうに笑い、翔太の頭をくしゃりと撫でた。
「お姉ちゃんはまだ目がちゃんと治ってないし、それに司さんも、今は外に出しちゃだめだって言ってたもの。翔太は私がついてるから大丈夫」
そう言って、安野月子は安野香苗へ視線を向ける。口元には、露骨な挑発が浮かんでいた。
――この女、どうして病院でそのまま消えてくれなかったのかしら。
二人のあまりに自然な触れ合いが、刃のように安野香苗の胸を抉る。
安野月子は香苗を一瞥すると、侮りと優越に歪んだ笑みを浮かべたまま、翔太の手を引いて玄関へ向かった。
安野香苗も反射的に追いかけようとした。だが、すぐに家政婦が前へ出て、その行く手を塞ぐ。
「奥様、どうかお部屋でお休みくださいませ。月子お嬢様がご一緒ですし、翔太様ならご心配には及びません」
