第5章

安野香苗はわずかに眉をひそめた。江原司は、いまも彼女を外へ出させるつもりがない。

握りしめた拳を、ゆっくりとほどく。

何気ないふりをして、問いを投げた。

「安野月子は、いつからここに住んでるの?」

家政婦は口をつぐんだままだった。香苗は鼻で笑う。

「それも言えないの? 私はこの家の女主人よ。知られたら困ることでもあるわけ?」

声がすとんと落ちる。家政婦は肩をすくめるように怯え、逡巡の末に答えた。

「月子様は……五年前から、こちらに」

香苗の視線が冷たく沈む。

――自分が精神病院に放り込まれた、その直後から。月子はこの家で暮らしていた。

香苗はさらにいくつか質問を重ね、断片的な事情を拾い集めていった。江原司がここ数年で事業を倍に膨らませたこと。自分の子どもが、小さいころから「月子お母さん」と呼ぶよう教え込まれてきたこと。

家政婦も同情したのか、余計に口を滑らせる。しかし、それ以上は知らないらしい。

香苗は外へ出たかった。街を見て、世の中がどうなっているのか確かめたかった。

けれど江原司は、戻ってきた彼女からスマホさえ取り上げた。いまもネットでニュースを確認することすらできない。

そのとき、香苗の視線がテレビに吸い寄せられた。

――そうだ。

彼女はリモコンを手に取り、電源を入れる。番組を適当に切り替えるが、何年も触れていなかったせいで指先がもたつく。ようやくA市のローカル局に合わせると、香苗は飢えたみたいに画面から情報を吸い込んだ。

キッチンから出てきた大崎がそれを見て、顔色を変える。

「お、奥様! どうしてテレビなんか……目に悪いですから、消しましょう! 早く!」

若様から、見せるなときつく言われている。

香苗は皮肉っぽく口元をゆがめた。

「目は完璧じゃないけど、耳はあるわ。どうして見せたくないの? 江原司に何か言われてるんでしょ」

精神病院ではスマホもテレビもなかった。戻ってきても、同じ。

――徹底的に外界から切り離す気だ。

大崎の表情が引きつる。香苗はわざと声の角を丸めた。

「大崎。私はもう十分退屈してる。テレビもだめなら、外を散歩するわ。どっちがいい? 選んで」

脅しと説得の挟み撃ちに、大崎は深くため息をつき、見て見ぬふりをすることにしたらしい。

「奥様……長くは見ないでくださいね。若様に知られたら、私が叱られますから」

香苗は小さく頷く。

――一歩、進んだ。

テレビで得た断片をつなぎ合わせ、外の状況は大まかに掴めた。

安野月子が翔太を連れて戻ってきたのは、午後も遅い時間だった。

庭先の物音に香苗が振り向くと、翔太と月子が笑い合いながら玄関をくぐってくるところだった。二人の「自然な親子」の光景が、香苗の目を鋭く刺す。

リビングに香苗がいるのを見つけた月子は、挑むように目を細め、わざと彼女の前で翔太に言った。

「翔太、今日お母さんと遊園地行って、楽しかった?」

「うん! お母さんがいちばん!」

無邪気な声が、鈍い刃で心臓を削ってくる。息が詰まるほど痛い。

翔太は香苗を見て、あからさまに顔をしかめた。

「え? なんでまだうちにいるの?」

香苗は立ち上がるタイミングを失い、ぎこちなく立ってしまう。

「翔太……お母さんだよ。お母さんがここにいなくて、どこにいるの……?」

月子が口元を押さえて、くすりと笑う。わざとらしく優しい声。

「翔太、お姉ちゃんはまだ目が治ってないの。ここにいなかったら行くところがないでしょ。それにお母さん、言ったよね? あなたが小さいころにいなくなったけど、この人は本当は、翔太の産んだお母さんなの」

翔太はそれを聞くなり、ぷいっと唇を尖らせて月子に抱きついた。

「やだやだ! ぼくは月子お母さんだけ! ほかのお母さんなんていらない! この人、ぼくのお母さんじゃない!」

香苗は拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、痛みすら分からない。

――自分の子どもが、自分を母親だと認めない。

違う。翔太が悪いんじゃない。教え込んだのは月子と江原司だ。子どもを、わざと歪ませた。

悲しみと憎しみが目の奥で渦を巻く。月子は得意げに翔太の肩をぽんぽんと叩いた。

「翔太、いい子。お母さんはずっとあなたのお母さんだよ。先にお部屋で休んでおいで。ね?」

翔太を宥めて二階へ行かせると、月子はゆっくり香苗の前へ歩み寄った。さっきまでの取り繕いは完全に消えている。彼女は香苗の耳元へ唇を寄せ、低く囁いた。

「お姉ちゃん、戻ってきても意味ないよ。ほら、翔太はあなたを母親だって思ってない。前だって私に勝てなかったのに、目まで潰れて……今はもっと無理」

毒蛇みたいに冷たい声。

香苗は冷ややかに笑い返した。

「あなたの母親と同じね。人の夫を奪うことしかできない。浮気女が産んだ娘も、結局は浮気女」

月子の顔色が一瞬で青ざめる。

香苗はそれ以上相手にせず、階段へ向かった。だが月子は黙って引き下がらない。追いすがって叫ぶ。

「安野香苗、止まりなさい!」

腕を乱暴につかまれる。

「離して!」

月子は嗤い、言葉をねじ込んできた。

「なんで精神病院で死んでくれなかったの? なんで今さら帰ってくるの? 知らないでしょ。あなたが愛してた夫は、毎日この別荘で私と寝てたんだから。もうあなたなんて愛してない。私なら、江原奥様の席をおとなしく譲って、精神病院に戻るけどね。衣食住は困らないでしょ?」

分かっていたはずの裏切り。それでも、本人の口から吐かれると胸が抉れる。

香苗は歯を食いしばった。

「安野月子、恥を知りなさい」

「ふふ、恥なんていらない。司はこういう私が好きなの」

月子が勝ち誇った、その瞬間――玄関のほうで足音がした。

月子の目がそちらを捉えるや、わざとらしく体を反らせる。

「きゃっ!」

派手な悲鳴。月子は床へ転がり、涙目で香苗を見上げた。

「お姉ちゃん……どうして私を突き飛ばすの?」

入ってきた江原司が、その光景を見て駆け寄る。

「どうした?」

怒りを含んだ低い声。

月子は震えるように彼を見上げ、泣きじゃくる芝居を始めた。

「司……痛い。翔太を休ませてあげようって言っただけなのに、急に押されて……それで私のこと、恥知らずの女だって……うぅ……」

江原司は月子を抱き起こし、香苗へ不機嫌な視線を投げた。

「香苗。今のは本当か? 月子を突き飛ばして、暴言まで吐いたのか。いつからそんな意地の悪い人間になった。……がっかりだ」

怒り。そこに混ざる、薄っぺらい失望。

香苗は彼の顔をまっすぐ見た。あまりにも滑稽で、喉の奥が冷たく笑う。

――あなたが、失望する資格なんてあるの?

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