第270章

彼はとびきり甘く優しい声音で、頬が火照るような愛の言葉を囁いた。

ほんの一瞬の隙をついて、彼はわずかに視線を上げ、彼女の背後に聳えるビルへと鋭い眼差しを向けた。

ちょうどその時、カーテンの陰に潜む長身の人影が、亡霊のように揺らめくのが見えた。

「あの……何をご覧になっているんですか?」

中村奈々は彼の異変を敏感に察知し、不思議そうに問いかけた。

「いや、なんでもない」

黒田謙志は軽く首を横に振った。その口調には、微かだが聞き逃せない緊張感が混じっていた。

「行こう。送っていく」

帰路につきながら、中村奈々は先ほどの淡い口づけを必死に忘れようとしていた。

いい大人の女にとって...

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