第2章
翌朝。新谷卿華は使用人の立川に起こされた。
立川は黒いカードを差し出し、感情のない声で告げる。
「旦那様からです。数日はお戻りになりません。この中のお金で足りるでしょう」
――契約妻。
その肩書きのせいで、立花家の使用人たちの視線には、露骨な侮蔑が混じっている。
卿華はカードを受け取らず、踵を返してクローゼットへ向かった。
「お出かけですか?」
立川は、卿華が立花真淵を追いかけるのだと決めつけたように、薄く嗤う。
「新谷嬢、忠告して差し上げます。須藤嬢が戻ってきたんですよ。あの方が旦那様にとってどういう存在か……あなたもわかっているでしょう。旦那様の機嫌を損ねたくないなら、おとなしくしていることです」
「わかっています」
卿華は立川の手元のカードへ目を落とし、凪いだ声で言った。
「そのお金はいりません。立花真淵に伝えてください。これからは一円たりとも受け取りません」
そう告げると、コートを羽織って玄関へ向かう。
扉を出る寸前、背後から立川のぼやきが飛んできた。
「たかが契約結婚のくせに……ほんと、自分を立花奥さんだと思ってるんだから」
卿華は淡く笑った。もう慣れてしまった。周囲の蔑みに心が反応しなくなっていく自分が、少し怖い。
それでも今日は、もっと大事な用がある。
――古沢正言が退院する。
卿華と正言は孤児院で一緒に泥をすすって育った。いじめられたとき、いつも真っ先に前へ出て庇ってくれたのが正言だ。
卿華にとって、世界でたった一人の家族だった。
三年前、正言は珍しい血液の病気だと診断された。必要な治療費は天文学的で、普通に生きていたら到底払えない額。
救うために卿華が選んだのは、冷酷無情と噂される立花真淵へ自分から近づくことだった。
尊厳と自由を差し出し、正言の命を買った。
――けれど、それを本人には一度も言っていない。
知れば正言は自分を責め、治療を拒むかもしれない。
命が助かる以上に大切なものなんて、卿華にはなかった。
不自然さを悟られないよう、支払い後は病院へ足を運べなくなった。医師から経過を聞くだけで、見舞いは最低限に抑えた。
花屋の前で足を止め、向日葵を大きな花束にして買う。
入院棟へ入ると、遠くに見慣れた背中があった。
古沢正言は少し痩せていたが、顔色はいい。白いTシャツにジーンズ、すらりと伸びた姿勢。
病の陰が薄れ、昔の太陽みたいな爽やかさが戻っていた。
卿華の胸がどくん、と跳ねた。目の奥が熱くなる。
――救えてよかった。全部、報われた。
そう思って歩み出しかけた、そのとき。
卿華の足が、ふっと止まった。
ピンクのワンピースを着た少女が、同じように向日葵の花束を抱えて駆け寄ってくる。背伸びをして、正言の頬にちゅっとキスをした。
「正言さん、退院おめでとう!」
甘い声。顔立ちも愛らしく、作ったように可憐だ。
正言は避けない。むしろ当然のように少女の腰を抱き寄せ、口元に少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そんなに俺に会いたかった? わざわざ迎えに来るなんて」
「もちろん! 今日は正言さんが生まれ変わった記念日だもん。来ないわけないじゃん」
少女が甘えるように正言の腕を揺らしたあと、ふと視線を上げる。
卿華の姿を見つけた瞬間、瞳に警戒が走った。少女は正言へぴたりと身を寄せ、探るように尋ねる。
「正言さん、この人は誰? 退院のお迎え?」
正言の視線が卿華に落ちる。
――赤の他人を見る目だった。
かつていつも宿っていた温かさは消え、残っているのは冷たさと、はっきりした嫌悪。
正言は薄い唇を開き、少女へ言い放った。
「知らない」
胸を握り潰されたみたいに痛くて、息ができない。
孤児院で唯一のパンを分け、自分は腹を鳴らしていた少年。
守るために頭から血を流していた少年。
里親に突き返された夜、抱きしめて「大丈夫、これから俺が養う」と言ってくれた兄。
その人が――「知らない」。
視界がすうっと暗くなり、卿華はよろめいて数歩下がった。転びそうになるのを堪えながら、二人が肩を並べて通り過ぎるのを見送る。
一度も、こちらを振り返らない。
大きな悲しみが波のように押し寄せ、卿華の心を飲み込んだ。
すべてを犠牲にしても、せめて正言の健康と、理解だけは戻ると信じていたのに。
立花真淵のもとでは、呼べば来る代用品。
古沢正言のもとでは、知らない赤の他人。
――私には、何も残っていない。
卿華は魂が抜けたように背を向け、ふらふらと去った。
背を向けた、その瞬間。
正言が少女を抱く手を強く締め、指先が白くなることなど、卿華は知らない。
「正言さん、どうしたの?」
「……なんでもない」
正言の瞳の奥で、痛みと憎しみが渦を巻いた。
交差点まで来たときだった。
卿華の下腹部に、鋭い痛みが走る。
「……っ」
腰が折れ、額に冷汗がにじむ。呼吸のたびに痛みが増していく。
お腹の子を思い、迷っている余裕はなかった。
卿華は激痛を噛み殺し、病院へ引き返した。
緊急検査のあと、医師の表情が険しくなる。
「新谷嬢、状態がよくありません。着床位置が異常で、子宮外妊娠のリスクが非常に高い。早急に手術を勧めます」
手術……?
頭が真っ白になる。卿華は反射的に下腹部を押さえた。
まだ生まれてもいないのに、失うなんて。
「ほかに方法は……ありませんか」
声が掠れた。
医師は首を振り、ため息を落とす。
「リスクが高すぎます。命を賭けるべきではありません。ご主人と相談を。まだお若い、また授かれます」
胸に苦さが広がる。
立花真淵と――もう二度と子どもを持てないかもしれない。
診察室を出ても、足元がふわふわした。
この子を、真淵との唯一の繋がりにしたかった。
なのに神様は、そんな小さな拠り所さえ奪うのか。
壁に手をつき、卿華はよろよろと歩く。
ふと前方の特別病室の扉が開くのが見えた。
立花真淵が、須藤郁夜をそっと支えながら出てくる。
郁夜は顔色が悪く、か弱く真淵の胸にもたれて何か囁く。真淵は腰の後ろへ手を回し、壊れ物を扱うように守っていた。
「真淵……」
郁夜が囁く。声まで儚い。
「私、役立たずかな。身体が弱くて……この先、子どもも授かれないかもしれない」
