第3章

新谷卿華の胸が、きゅっと締めつけられた。頭の奥がぶうんと鳴る。

――もう、そこまで来てるの? 備孕の検査まで?

反射的に一歩退き、廊下の角へ身を隠す。

すると、立花真淵のやわらかな声が届いた。

「馬鹿なことを言うな。俺がちゃんと面倒を見る」

続けて、須藤郁夜の甘い笑い声。

「じゃあ約束して。これからはずっと私のそばにいて。前みたいに、急に置いていったりしないで」

「約束する」

立花真淵は、迷いひとつなく言い切った。

新谷卿華の心臓が、鈍器で殴られたみたいに痛む。息がうまく吸えない。

立花真淵は、以前こう言った。――子どもは好きじゃない、と。

違う。

子どもが嫌いなんじゃない。

新谷卿華との子が、いらないだけ。

彼の中で、自分は子を産む価値すらないのだ。

涙で視界がにじんでいく。受け止められない現実に、卿華は踵を返し、逃げるようにその場を離れた。

立花家のマンションに戻ったころには、空は黄昏色に沈みかけていた。

ドアを開けた途端、玄関に立川が腕を組んで立っているのが見えた。苛立ちが顔に貼りついている。

「どこ行ってたの。遅いじゃない」

吐き捨てるように言い、続けて鼻で笑う。

「さっき旦那さまから電話があったわ。クリーム南瓜スープを作って、病院へ持ってこいって」

新谷卿華は瞬きをした。

「病院へ……?」

「須藤嬢が体調崩して入院したのよ」

立川はキッチンの方を顎で示す。

「食材は用意してある。さっさと作りなさい」

卿華はその場で立ち尽くし、指先がきゅっと強張った。

――自分が、須藤郁夜にスープを届ける?

立花真淵は、それがどれほど残酷か、わかっていて言っているのか。

それとも、最初からどうでもいいのか。

「何? 嫌そうな顔して」

立川が冷ややかに笑う。

「新谷嬢、身の程をわきまえなさいよ。そんな小さな用もこなせないなら、旦那さまの機嫌を損ねるだけ。そしたら、名ばかりの立花奥さんですらいられなくなるわ」

胸の奥を針で刺されたように痛んだ。

そうだ。自分は、金で雇われた「立花奥さん」。

拒む資格なんて、最初からない。

「……わかりました」

卿華はかすれた声で答え、キッチンへ向かった。

立川が揃えた材料は豪華だった。卿華は手慣れた手つきで南瓜を刻み、鍋を火にかける。

三年。

立花真淵に喜ばれたくて、必死に料理を覚えた。

彼はめったに帰ってこない。それでも、たまに「うまい」と言われるだけで、数日間、心が浮いた。

――今思えば、あれは優しさじゃない。

施しだったのだ。

スープを保温ポットに移し、卿華は病院へ向かった。

特別病室の前に着くと、扉の向こうに二人の姿が見えた。

須藤郁夜はベッドに半身を預け、立花真淵が隣で世話をしている。まるで大切なものに触れるみたいに。

ドアの音に立花真淵が振り向く。卿華だとわかった瞬間、眉がきつく寄った。

「なんで来た」

「立川さんに頼まれて……スープを」

卿華は目を伏せ、蚊の鳴くような声で答える。

須藤郁夜が卿華を上から下まで眺め、にこりと笑った。

「真淵の家の使用人さんよね? わざわざありがとう。届けてくれて」

指先が小さく震えた。けれど否定できない。

立花家での自分は、使用人と大差ないのだから。

立花真淵は卿華の立場を一言も説明せず、淡々と命じた。

「そこに置け」

卿華がポットをサイドテーブルに置き、踵を返した、そのとき。

「待って」

須藤郁夜が呼び止める。

「よそってくれない? ちょうどお腹が空いちゃって」

卿華の身体が固まった。

立花真淵が低く言う。

「郁夜が飲むって。よそえ」

卿華は唇を噛み、もう一度ベッド脇へ戻る。ポットを開け、器に注いで差し出した。

須藤郁夜は一口含み、眉をひそめた。

「……これ、扁豆が入ってる?」

立花真淵の表情が一気に沈む。卿華を睨んだ。

「郁夜が扁豆を食べないの、知らないのか」

――知るわけがない。

「でも、材料は立川さんが……」

小さく言いかけた瞬間、声が鋭く落ちる。

「言い訳するな。立川の不手際でも、確認しろ。立花家に長くいて、その程度もできないのか。相変わらず気が利かないな」

心が、じわじわ冷えていく。

「……すみません」

掠れた謝罪。

須藤郁夜は立花真淵の袖をそっと引き、柔らかく笑った。

「もういいよ、真淵。使用人に怒ることないって」

そのまま卿華へ向き直り、見下ろす口調で言う。

「これから私の食事は用意しなくていいわ。栄養士さんに頼むから」

頬が熱くなる。屈辱で、息が詰まる。

立花真淵の中に残っていた最後の幻想が、そこで完全に死んだ。

「帰れ」

立花真淵が手を払うように言う。

卿華は病室を出て、静かに扉を閉めた。

マンションへ戻ると、そのまま荷造りを始めた。

立花家での私物は驚くほど少ない。彼が買ったブランドの服や宝飾品は残した。本当に自分のものは、スーツケースひとつで足りた。

荷をまとめ終え、卿華はソファに座って立花真淵の帰りを待つ。

午前2時。

鍵が回る音がして、扉が開いた。

疲れを背負った立花真淵が入ってきて、暗闇の中の卿華の影に気づき、わずかに足を止めた。

「まだ寝てないのか」

外套を脱ぎ、ソファへ放り投げる。

卿華は立ち上がり、静かに彼を見た。

「立花真淵。話がある」

「何だ」

どこか上の空の声。

「契約を、前倒しで終わらせましょう」

卿華の声は、驚くほど軽かった。

立花真淵が振り返り、信じられないものを見るように卿華を見た。

今日の卿華は、どこかが決定的に違う。そう感じたのかもしれない。

「……何を言ってる」

「離婚しましょう」

卿華は淡々と言った。

「三年前、あなたが出してくれた手術費は返します」

立花真淵はしばらく黙り込み、やがて冷笑を浮かべた。

「新谷卿華。自分が何を言ってるかわかってるのか」

卿華はその視線を真正面から受け止め、悲しいほど乾いた声で答える。

「三年です。もう疲れました。須藤嬢も戻りましたし……立花奥さんの席はお返しします」

「嫉妬か」

立花真淵の顔が険しくなる。

「嫉妬する資格が、私にありますか」

卿華は笑った。苦い笑い。

スーツケースの取っ手を掴む。

「安心してください。今夜出ていきます。もう二度と、あなたと須藤嬢の前には現れません」

そう言って玄関へ向かう背に、氷のような声が落ちた。

「決めたなら、明日の朝。市役所の前で会え」

卿華は足を止めた。背を向けたまま、堪えていたものが決壊する。

涙が溢れ、喉の奥が痛む。

それでも振り返らず、静かに言った。

「……わかりました」

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