第4章
その言葉を口にしただけで、新谷卿華は全身の力を使い果たした気がした。
軽いスーツケースを引きずり、一歩踏み出すたび、刃の上を歩かされているみたいだった。
背後――玄関の陰に、立花真淵が立っている。沈んだ視線が、夜に溶けそうな彼女の背中を追っていた。
細い影はやけに頼りなく、ふらつく歩き方が目に入った瞬間、なぜか胸の奥がひくりと跳ねる。理由のない苛立ちが、じわりと湧いた。
思わず一歩、近づこうとして――
大理石のカウンターに置かれたスマホがぱっと光り、けたたましい着信音が静寂を切り裂いた。
立花真淵は足を止め、画面を見下ろす。表示されていたのは「郁夜」。
通話に出た途端、さっきまでの冷たい輪郭が溶けた。
「郁夜? こんな時間にどうした。まだ起きてたのか」
受話口から、泣き声まじりの須藤郁夜が縋るように言う。
『真淵……私……お腹が少し痛くて。先生が経過観察かもって……怖いの。戻ってきてくれない?』
「大丈夫だ。今すぐ行く」
焦りを滲ませた声のまま、立花真淵は玄関にいる新谷卿華を一度も見ない。
そのまま踵を返し、少し離れた場所で控えていた立川さんに命じた。
「郁夜のほうで問題が起きた。俺は行く。新谷卿華のことはお前が処理しろ。面倒を起こすな」
言い捨てるようにしてコートを掴み、視線すら寄こさず扉を押し開けて出ていく。
ドアが閉まった瞬間、新谷卿華の身体はようやく支えを失い、壁に沿ってずるりと落ちた。
激しい腹痛が波のように全身を呑み込み、見えない手で臓腑をねじり上げられる感覚に、息が詰まる。
冷汗が噴き出し、顔色は紙のように白い。両手で下腹部を押さえ込むと、指先が小さく震えた。
立川さんが近づき、見下ろす。
さっきまで立花真淵の前で見せていた恭しさは影もない。浮かんだのは、意地の悪い嘲りだった。
「新谷さん、ほんと上手ねえ。もう離婚? どれだけ「立花夫人」の席にしがみつくかと思ってたのに」
新谷卿華は痛みで呼吸すらまともにできない。汗に濡れた前髪が、青白い頬に張りつく。
「可哀想ぶるんじゃないよ」
立川さんは彼女の足元のスーツケースをつま先で蹴り、鼻で笑った。
「旦那さまも言ったでしょ。私が処理しろって。どうせ須藤さんと旦那さまが一緒なのが悔しくて、ここで苦肉の策ってわけ。泣けば同情してもらえると思った? 無駄よ。旦那さまの心はもう須藤さんに飛んでるんだから」
新谷卿華は歯を食いしばり、唇が切れて血が滲んだ。
言い返す力も、相手をする気力もない。
立ち上がろうとしたところで、立川さんが肩を押さえつける。
「何する気? 離婚するなら離婚らしくしな。ここにある物、どれもあなたが買えるようなもんじゃない。持ち出そうなんて――」
立川さんがスーツケースに手を伸ばし、中を改めようとした。
「……どいて」
新谷卿華が顔を上げる。
いつも従順だった瞳に、氷みたいな光が走った。立川さんの手がびくりと止まる。
新谷卿華は立川さんを突き飛ばし、壁に縋りながらふらついて立った。視界が暗くなるほど痛い。それでも、本能が叫ぶ――病院へ。
「放っておいて」
掠れた声に、揺るがない決意が混じる。スーツケースを引き、這うように玄関へ向かった。
立川さんは呆然と見送るしかない。
扉が乱暴に閉まった瞬間、ようやく我に返って吐き捨てた。
「ぺっ、何様だよ!」
……
深夜の病院。廊下は骨に染みるほど冷たい。
新谷卿華はどうやって診察室に辿り着いたのか覚えていなかった。
ただ、歩くたびに痛みが増し、何かが身体の奥から少しずつ失われていくような気がした。
医師は検査結果を見て、眉間に深い皺を刻む。先ほどよりも険しい顔。
「新谷さん、状態が悪化しています」
報告書を机に置き、きっぱりと言った。
「前にもお伝えしましたが、子宮外妊娠の位置が非常に危険です。いつ大出血を起こしてもおかしくない。もう待てません」
新谷卿華は椅子に崩れ、窓の外の黒をぼんやり見つめた。
「……処置しなかったら、どうなりますか」
声は風に溶けそうなほど小さい。
医師は一度息を吐き、少しだけ声を和らげながらも断言した。
「大出血、ショック、命の危険。お子さんが惜しい気持ちはわかります。でもこれは「残せるかどうか」の問題ではありません。「あなたが生きられるか」の問題です」
そして鋭い視線で彼女を射抜く。
「このまま無理をして事故が起きたら、誰にも救えません。手術を決めたら、すぐ連絡してください」
新谷卿華は俯き、平らな下腹部を見る。
この命は、最初から望まれていなかった。
父親は目を向けようともせず、別の女のために迷いなく彼女を後回しにした。
この子が、世界で最後の繋がりだと思っていた。
立花真淵と自分を結ぶ、たった一本の糸だと。
けれど――それすら、自分の笑い話だったのかもしれない。
長椅子で一人、周囲は水を打ったように静まり返る。
目を閉じると、涙が一筋、音もなくこぼれ、髪に吸い込まれて消えた。
さようなら、立花真淵。
*
朝の光が薄い霧越しに、市役所の冷たい大理石の階段を照らす。
新谷卿華は生成りのトレンチコートを羽織り、今にも倒れそうなほど細い影を落としていた。
腹の痛みは薬でどうにか抑えている。だが、魂を抜かれたみたいな虚脱だけが、ぴたりと身体にまとわりついて離れなかった。
