第5章
彼女は手首を持ち上げ、腕時計に目を落とした。
朝8時半。市役所が開いたばかりの時間だ。
来るのが早すぎた。職員の出勤時刻すらまだのはずなのに。行き交う人々はせわしなく、あるいは嬉しそうに笑っている。――その中で、新谷卿華だけが、階段の脇に取り残された孤島みたいに立っていた。
反射的に襟元をきゅっと寄せる。刺すような朝の寒さを、少しでも遮りたくて。
身体はまだ、限界まで弱っている。立っているだけで、意志を削られていく感覚があった。
それでも、もう待ちたくなかった。
たった1秒でも長く、この名ばかりの結婚に縛られていることが――命を薄く薄く削がれるみたいに苦しい。
9時。9時半。10時……
焦りの中、時間だけが間延びしていく。バッグの中のスマホは沈黙したまま。着信も、メッセージもない。
通話履歴を何度も更新しては、市役所の入口へ視線を投げた。
誰かが近づいてくるたび、心臓がひゅっと跳ねる。けれど影がはっきりするたび、落胆だけが静かに積み重なった。
立花真淵――来ないの?
新谷卿華は目を伏せ、瞳の奥に溶けきらない苦さを押し隠す。
彼にとって離婚は、取るに足らない契約の解除にすぎないのかもしれない。わざわざ本人が来て署名する価値すら、ない。
あるいは今ごろ、須藤郁夜の病床に寄り添っているのだろうか。失いかけた温もりを抱きしめ直し、昨夜の約束なんて遠くへ放り投げて。
ふわり、と小さな眩暈が来た。新谷卿華はよろめき、咄嗟に隣の石柱へ手をつく。
「お嬢さん、大丈夫ですか」
通りがかった警備員が、紙みたいに白い顔を見て声をかけてくる。
新谷卿華は首を横に振り、かろうじて口角を上げた。
「ありがとうございます……大丈夫です」
スマホを取り出す。深く息を吸い、指が覚えている番号を押した。
長い呼び出し音。いつものように切られる、そう思ったころ――受話口に、じり、と電流のノイズが走った。
声はない。ただ、向こう側のざわついた人の気配だけが混じる。
「立花真淵」
新谷卿華の声は小さく、震えを無理やり飲み込んだ。
「市役所の前にいます。いつ来ますか」
沈黙が落ちる。数秒が、やけに長い。
やがて返ってきた声は冷たく、邪魔をされた苛立ちすら滲んでいた。
『会社の用事だ。あとで』
「でも昨日、約束――」
『もっと大事なことがある』
遮るように言い切られる。取りつく島もない。
『新谷卿華、そんなくだらないことで俺を煩わせるな。忙しい』
そのまま、一方的に通話が切れた。
耳元に残るのは、つう、つう、という冷たい音だけ。
新谷卿華はスマホを握りしめる。指の関節が白くなるほどに。
もっと大事なこと。
――そう、立花真淵にとっては、須藤郁夜の笑い皺ひとつ、何気ない眉の動きひとつが。新谷卿華の生死より、婚姻の終わりより、ずっと重要なのだ。
風が髪を乱す。彼女はただ、そこに立ち尽くした。
朝から、日暮れまで。眩しい陽射しが傾き、残光が街を染め、やがてネオンが灯るころまで。
市役所を出入りする人波は何度も入れ替わった。それでも新谷卿華は、階段の上にいた。
立花真淵は来ない。
説明も、理由も、ひとつもない。
とうとう膝が折れ、ゆっくり階段に腰を下ろす。骨の芯から滲む疲労が、立ち上がる力すら奪っていく。
夜風はますます冷たく、刃みたいに頬を撫でた。
そのとき、スマホが不意に鳴った。静寂を裂く、刺々しい着信音。
画面には「立花真淵」。
胸がきゅっと縮む。新谷卿華は震える指で通話を取った。口を開くより先に、命令みたいな声が飛んでくる。
『今夜、本家で家宴だ。支度して、今すぐ来い』
不在の離婚人など最初からいなかったみたいに。外面だけは整った夫婦のまま、という顔で。
新谷卿華はその冷えた指示に、ただ呆れ果てた。
「立花真淵……今日は、離婚の約束でした」
唇を噛む。声は掠れて、ほとんど音にならない。
『言っただろ。重要な用がある』
明らかに苛立っている。
『このタイミングで拗ねるな。本家には年上が揃ってる。欠席したらどうなるか、わかってるな』
また通話が切れた。
新谷卿華の指先が、小さく震える。
拗ねている――?
歪んだ関係を終わらせたいだけなのに。彼の目には、機嫌の問題にしか映らない。
新谷卿華はゆっくり立ち上がる。腹の傷が、じくり、と疼いた。
彼が家宴に呼ぶのは、彼女を必要としているからではない。必要なのは「立花奥さん」という看板だ。本家の年上に向けた、体裁の道具。
なら――最後の芝居くらい、演じてやる。
幕が下りたら、本当に終わりだ。
新谷卿華はスマホを見つめ、運転手の番号へかけた。
市役所前の広場を風がうなり、薄いトレンチがばさりとはためく。
『はい、奥様?』
坂東の声は歯切れが悪い。背後にエンジン音と、病院らしい喧騒が混じっている。
「坂東。市役所にいます。立花真淵に本家へ来いと言われました。迎えに来られますか」
声は小さく、冷え切って掠れていた。
一拍の沈黙のあと、坂東が困ったように息を吐く。
『奥様、申し訳ありません。先生がさきほど、市中心病院へすぐ行って須藤嬢を迎えろと……退院で世話が必要だそうで。もう病院へ向かっているところなんです。奥様は……タクシーで――』
やっぱり。
新谷卿華は口元を歪め、乾いた自嘲を漏らした。
彼の優先順位で、自分はいつだって後回し。好きなときに置いておける、都合のいい選択肢でしかない。
