第7章
新谷卿華は今、とにかく静かな場所に逃げ込みたかった。たとえ数分でもいい。
重たいガラス扉を押し開けると、夜気を孕んだ冷たい風が顔にぶつかる。
露台の外はひっそりした庭園。黄ばんだ灯りが木々の影を長く引き伸ばしていた。
下腹の激痛がぶり返し、新谷卿華は氷みたいに冷えた石柱にもたれて、荒く息を吐いた。
ポケットからスマホを取り出す。画面の光が、血の気のない頬を青白く照らした。
病院へ発信する。
「……先生」
声は小さい。それなのに、妙に澄んでいた。
受話口の向こうで、医師が疲れた調子で告げる。
「新谷さん、もう先延ばしはできません。手術しなければ子宮外妊娠が破裂して命に関わります。覚悟は決まりましたか」
新谷卿華は星空を見上げた。目の奥がつんと痛む。けれど、涙は一滴も落ちない。
「決めました」
静かな声。絶望に近いのに、どこか解放された響きだった。
「二日後、入院の手続きをします」
「わかりました。では、待っています」
「……お願いします」
通話を切り、スマホが指先から滑りそうになる。新谷卿華は落とすまいと強く握り込んだ。
この瞬間、かつて卑屈に愛を乞うていた自分に、ようやく別れを告げられた気がした。
子どもも、結婚も、笑ってしまうほど薄っぺらい自尊心も――踏みにじられて、もう残っていない。
何もない。
けれど、何もないなら、縛られるものもない。
冷えた空気を胸いっぱい吸い込み、新谷卿華は踵を返す。せめて最後くらい、体面だけは保って戻ろうとした。――その瞬間。
身体が、凍りついた。
露台の影に、立花真淵が立っていた。
半分ほど燃えた煙草を指に挟み、赤い火が闇の中でちかちかと明滅する。墨みたいに深い瞳が、瞬きもせず彼女を捉えていた。今の会話を、聞いていたとしか思えない。
立花真淵は煙草を手すりに押しつけ、じゅっと揉み消す。そして長い脚で、ゆっくりと近づいてきた。
一歩。
また一歩。
そのたびに心臓を踏まれるみたいで、新谷卿華は息が詰まる。
目の前まで来た瞬間、煙草の匂いと冷杉の香りが強引に覆いかぶさった。
立花真淵は見下ろすように彼女を眺め、陰のある視線で値踏みする。次いで、乱暴に手を伸ばし、顎をつかんで顔を上げさせた。
「ここでサボりか?」
低い声。ぞくりとする圧が滲む。
「さっき誰と電話してた。何を決めた? 新谷卿華、俺に隠れて何を企んでる」
心臓が激しく跳ね、喉元までせり上がってくる。
新谷卿華は平静を装った。指先を掌に食い込ませ、痛みで眩暈をごまかす。
息を整え、乾いた声で言う。
「明日の検査を予約しただけです。先生と時間の確認を」
立花真淵が目を細め、顎をつかむ指に力がこもる。冷杉と煙草の匂いが呼吸を奪うほど近い。
じっと、長い時間。
嘘か真かを測るように見つめられて――やがて、短く問われた。
「本当か」
「信じないなら、通話履歴でも見ればいい」
新谷卿華は視線を逸らさず、投げやりなほど静かに告げる。
「私だって早く片づけたいんです。あなたの前から消えるために」
その言葉が癇に障ったのか、あるいは妙に気に入ったのか。
立花真淵は鼻で笑い、手を放した。そして、触れた指先が汚れたとでも言いたげに、ポケットからハンカチを取り出して拭う。
「真淵?」
露台の扉が開く音。
須藤郁夜の甘く柔らかな声が、すき間風みたいに差し込んできた。
純白のロングドレスのまま、彼女はドア枠にもたれ、二人を見比べる。疑いと委屈を、絶妙に薄めた表情で。
「どうしてこんなに長く? みんな、ケーキを切るの待ってるよ」
立花真淵の顔から陰がすっと消える。
彼は振り返り、郁夜のほうへ歩み寄った。声はさっきまでとは別人みたいに穏やかだ。
「なんでもない。ちょっとした用だ。行こう、戻るぞ」
立花真淵は終始、新谷卿華を一度も振り返らなかった。まるで露台に残った影の染みでも見るように。
新谷卿華は暗がりに立ち尽くし、寄り添って去っていく背中を見送った。
胸の奥に残っていた最後の火が、ぷつりと消える。
下腹の重い痛みが、さらに増していく。冷たい刃で神経を少しずつ削がれるみたいだった。
ここにはいられない。
この場所の空気は、一息吸うだけで喉を塞ぐ。
宴会の中心に視線が集まっている隙を狙い、新谷卿華は音を立てずに身を翻す。露台を出て長い廊下を抜け、本家の門へ向かって歩いた。
夜風が冷たい。骨の髄まで沁み込み、弱り切った身体が小刻みに震える。
――もし今夜ここで倒れたら、立花家の人間にどれほど笑われるだろう。
そう思うだけで、息が詰まった。
