第8章
立花本家の重たい装飾門をくぐった途端、新谷卿華は両脚に鉛を流し込まれたみたいに重くなった。
墨を流したような夜。立花本家の外を巡る山道には、冷たい風が枯れ葉を巻き上げ、ぺしぺしと卿華の薄い服を打ってくる。
腹の奥を抉る痛みは、鈍い刃で臓腑を何度も引き裂かれるようだった。
一歩進むたび、額の端から冷や汗が滲み、こめかみの髪をじっとり濡らしていく。
卿華は小腹を強く押さえた。指の関節は、力を込めすぎて紙みたいに白い。
あとどれくらい持つのか、自分でもわからない。ただ意識はふわふわと遠のき、街灯の光さえ二重に揺れはじめていた。
もう限界――そう思った瞬間、遠くからエンジン音が滑り込んでくる。
黒いセダンが静かに横へ寄り、窓がすうっと下がった。現れたのは、冷えた輪郭の、見慣れた顔。
古沢正言は片手をハンドルに置いたまま、今にも倒れそうな卿華をひと目見るなり眉をひそめた。声には隠しようのない嫌悪が滲んでいる。
「立花家の門の前でくたばるつもりか。迷惑だろ」
卿華は足を止め、振り向いた。かつて何度も夢の中で自分を温めてくれた、その顔を見つめる。
けれど今、その瞳にあるのは冷たさと嘲りだけだった。
ひび割れた唇をわずかに引き、卿華は掠れ声で返す。
「放っておいて」
重たい足を引きずり、車の前を回って、そのまま行こうとする。
「乗れ」
正言の声がさらに冷えた。有無を言わせぬ響きだった。
「こんな時間にお前が道端で死んだら、こっちまで疑われる」
「いらないって言ったでしょう」
卿華は頑なに拒んだ。こんな無様な姿を見られたくない。立花真淵のために、くだらない恋なんかのために、自分をここまで壊したことまで知られたくなかった。
「いい加減にしろ」
正言は車のドアを開けると、さっさと卿華の前まで歩み寄り、その手首を掴んで強引に車のほうへ引いた。
熱い掌だった。氷みたいに冷えた卿華の肌とは、あまりにも対照的で。
卿華は身をよじった。けれど子宮外妊娠の痛みが腹をずたずたに裂き、たちまち力が抜ける。そのまま、ぐらりと正言の胸へ倒れ込んだ。
正言は眉を寄せ、ぎこちない動きで彼女を受け止める。
腕の中の女は、血の気が引いて真っ白だった。正言の目の奥に、一瞬だけ複雑な色がよぎる。だが次の瞬間には、いつもの冷たさに塗りつぶされていた。
「……面倒くさい」
低く吐き捨てると、正言は卿華を横抱きにし、そのまま後部座席へ押し込んだ。
どうにか腰を落ち着けた途端、助手席から露骨な敵意が飛んでくる。
若くて可愛らしい女だった。見覚えのある、あのピンクのワンピース。病院で正言に甘く寄り添っていた女だ。
彼女はバックミラー越しに卿華を睨み、不満げに唇を尖らせた。
「正言さん、なんでこの人まで乗せるの? 知らないって言ってたよね?」
胸の奥を、鋭い針でひと突きされたみたいだった。
正言は運転席へ戻ると、説明もせず淡々とエンジンをかける。
「ついでだ」
「でもぉ……」
女は不満そうに口を尖らせ、それからわざと後部座席へ身を乗り出した。
「せっかくの二人きりなのに、外野がいるとか最悪なんだけど」
言いながら、所有物に触れるみたいに正言の腕へ手を絡める。
正言は振り払わなかった。
狭い車内に、女の甘ったるい香水の匂いが満ちる。そこへ正言の清冽な煙草の気配が混ざり、卿華は息が詰まりそうになった。
後部座席の隅で、小さく身体を丸める。腹の痛みは波みたいに何度も押し寄せ、そのたび岩を砕くように内側を打った。
卿華はそっと目を閉じた。前の席から流れてくる親しげなやり取りなんて、もう何も聞きたくなかった。
「正言さん、まだ答えてくれてない。今夜はどこ行くの?」
「お前の行きたいとこでいい」
低く落ち着いた声。その端に滲む気安い甘さが、卿華には残酷だった。
「ほんと? じゃあ新しくできたフレンチのお店がいいな。あそこのワイン、すごく評判なんだって」
卿華は唇をきつく噛みしめた。じわりと、血の味が滲む。
自分はまるで透明人間だ。この狭い車内で、「幸せ」という芝居を無理やり見せつけられている。けれど、その舞台の主役に自分がなることは絶対にない。
「ねえ正言さん、今日やけに静かじゃない? この人がいるから、話しにくいの?」
女はくすくす笑い、挑発するように卿華を振り返った。
正言は低く笑う。その響きは深く甘いのに、卿華の耳にはひどく耳障りだった。
「気にするな。どうでもいい相手だ」
どうでもいい。
たったその一言で、新谷卿華がこれまで抱えてきた我慢も、祈りも、全部が粉々に砕け散った。
彼を救うため、立花真淵に身を売ったこと。
治療費のために、屈辱を飲み込んできたこと。
そのすべてが、彼にとっては――どうでもいい。
張り裂けそうな悲しみと、肉体を蝕む激痛がひとつになって、卿華の魂を少しずつ引き剥がしていく。
もう、無理だった。
身体は限界を超え、心もとうに崩れ落ちている。
視界がぼやけ、前の二人の姿が滲み合い、まだらな光の塊に変わっていく。
泣きたかった。けれど、涙を流す力さえ残っていない。
やがて意識は、底の見えない闇へとゆっくり沈んでいった。
車窓に身体を預けたまま、呼吸が細く長くなっていく。
新谷卿華は、そのまま深い眠りへ落ちた。
車内が、しんと静まる。
背後から規則正しい寝息が聞こえた瞬間、正言の手がハンドルを握りしめた。指の節が白く浮くほどに。
バックミラー越しに卿華を見やる。
血の気のない頬。痛みに耐えるよう縮こまった身体。
その瞬間、正言の目つきが変わった。さっきまでの投げやりな色は跡形もなく消え、隠しきれない焦りと痛みが滲み出る。
隣でまだ甲高く喋り続ける女へ、正言は氷みたいな声を落とした。
「……もういい。黙れ」
「正言さん……?」
女が怯えたように振り向く。
正言は前だけを見たまま、容赦なく言い放った。
「降りろ」
「え……? 今、ここで? まだ街までずいぶんあるよ……」
正言はゆっくり顔を向けた。深い瞳の底で、苛立ちと凶暴さがどす黒く渦を巻いている。
「最後に言う。今すぐ失せろ」
その目に射抜かれ、女の顔からさっと血の気が引いた。
こんな正言は見たことがない――本能でそう悟ったのだろう。まるでこのまま食い殺されそうな、剥き出しの険しさだった。
女はもう一言も返せず、震える手でドアを開け、転がるように車を降りていった。
