第9章
ドアが閉まった瞬間、古沢正言はエアコンの温度を数度上げ、窓を少しだけ下げた。夜の冷たい風が、直接、新谷卿華の身体を撫でないように。
ルームミラー越しに映るのは、蒼白な寝顔。
三年ぶん胸の奥に溜め込んできた痛みと憎しみが、その瞬間だけ、どうしようもない悔恨へと形を変える。
古沢正言は路肩にゆっくり車を寄せ、慎重に振り返った。
伸ばした指先で、額に落ちた乱れ髪に触れようとして――空中で、ぴたりと止まる。
「新谷卿華……」
掠れた声は、ほとんど吐息だった。
「お前、いつまで自分を粗末にすれば気が済むんだ」
眠っているのに、眉間には深い皺が刻まれている。胸が、ぎり、と潰れそうになる。
車内は死んだように静かで、外の風のうなりだけが耳を刺した。
古沢正言は角に丸まるその影を一度だけ深く見つめ、エンジンをかけ直す。
今度は、異様なほどゆっくりと。
夢の中でさえ安らげない女を、これ以上揺らしたくないとでも言うように。
*
新谷卿華が再び意識を取り戻したとき、鼻先に淡い鎮静の香りが漂っていた。
重いまぶたを押し上げる。視界に入ったのは、天井のフランス風のクリスタルシャンデリア。
――ここは、立花真淵と名ばかりの「家」。
身体を起こすと、腹の奥がずしりと鈍く落ちた。細い針で絶え間なく刺されているみたいな痛み。けれど昨夜の、内側から引き裂かれるような激痛に比べれば、まだ耐えられる。
視線をずらす。
リビングの大きな窓の前に、長身の男が立っていた。
古沢正言。背を向け、火のついていない煙草を指に挟んでいる。朝の薄い光が、その硬い輪郭だけを縁取っていた。
ソファの気配に気づいたのだろう。彼は振り返る。逆光で表情は読めない。ただ、こちらを見た瞳だけが、ひどく冷たい。
「起きたか」
煙草を無造作にゴミ箱へ放り込み、感情のない声で言った。
「送ってくれて……ありがとう」
新谷卿華の声はかすれていた。乾いた唇が、かろうじて形を作る。
視線を落とし、圧に耐えきれないように彼の目を避けながら、ソファの肘掛けに縋って立ち上がった。
玄関には、昨夜まとめた軽いスーツケースが置かれている。
胸の奥の酸っぱさを飲み込み、新谷卿華は小さく息を吸った。
「昨日は迷惑かけました。もう帰って」
古沢正言の目がスーツケースに落ち、口元が嘲るように歪む。
「何だ。立花家にいられなくなって追い出されたのか」
「出ていくつもりです」
その言葉に、古沢正言の動きが一瞬だけ止まった。
次いで、耳障りなほど薄い冷笑が漏れる。
「へえ。昨夜、立花本家の門の前じゃ、ずいぶん耐えてたじゃないか。立花真淵をどれだけ愛してるのかと思った。痛みで死にかけても、みっともなく『立花の奥さん』にしがみついて。初恋が戻ったら、尻尾巻いて席を譲るしかないってか」
錆びた鈍い刃物で、何度も心を抉られる。鋭さがないぶん、長く痛い。
三年前なら、泣きそうな目で言い返したかもしれない。針を立てるみたいに、刺し返したかもしれない。
でも今の新谷卿華には――反論する力が残っていなかった。
古沢正言の目には、自分はきっと、金と虚栄のために権力に縋った女にしか映らない。
「……ごめんなさい」
声は風にほどけそうなほど小さい。
「昨日、見苦しいところを見せました。これからは……あなたの前にもう現れません。迷惑もかけない」
その従順さが、火に油だった。
「ごめんなさい?」
古沢正言は一気に詰め寄り、手首を掴む。骨が軋むほどの力。
「新谷卿華。お前、それしか言えないのか」
蒼白い顔を、真っ赤な目で睨み据える。
三年前の新谷卿華の瞳には、光があった。どれだけ殴られても、血を流しても。あんな場所で生き抜きながら、卑屈にはならなかった。
それが今は、魂の抜けた人形みたいだ。
「そのザマで……!」
古沢正言の胸が荒く上下し、声が歯の間から漏れる。
「新谷卿華、あのとき……どうしてだ」
壁へ追い込まれ、背が冷たい面に当たる。腹が引き攣れ、息が喉で詰まった。
彼の問いは血を吐くようで、新谷卿華には逃げ道がない。
言えるわけがない。
彼の治療費のために、立花真淵に三年を売っただなんて。尊厳と自由を差し出して、命を買っただなんて。
古沢正言の指がさらに食い込む。熱い吐息が、震える睫毛を揺らした。
「言え!」
けれど、目尻に滲んだ涙を見た瞬間、声の角がふっと落ちた。本人も気づかないほど、かすかな哀願を帯びる。
「新谷卿華……真実を言え。苦しい事情があったって……そう言ってくれ」
新谷卿華は痛みに目を閉じた。
涙が一筋、頬を伝って落ちる。それが古沢正言の手の甲に触れた瞬間、彼の指がびくりと震えた。
長い痛みより、短い痛み。
断つなら、徹底的に。
「苦しい事情なんてない」
新谷卿華は唇を震わせながら目を開き、無理やり彼を見返す。
「私は、貧しい暮らしが嫌だった。苦しい日々にうんざりして……立花の奥さんになりたかっただけ」
「――何をしている」
玄関の方から、氷のように冷えた男の声が突き刺さった。
