第3章
心臓が早鐘を打っている。私は必死に平静を装った。
「ただ階段で転んだだけよ。私ってば、いつもドジだから……」
ヴィニーがゆっくりと歩み寄ってくる。その一歩一歩が、私の心臓を冷たい手で鷲掴みにするようだった。
彼は目の前で立ち止まり、私の額に手を伸ばした。
「さっき逃げ出したのはお前だな?」
思わず後ずさる。
「な、何を言ってるの? 私はずっと家であなたを待っていたのに……」
「嘘をつくな」
ヴィニーの声は平坦だったが、そこには冷たい殺意が滲んでいた。
「なぜ、あそこにいた?」
足の力が抜けそうになる。
「ど、どうして彼女を殺したの? ソフィアは私の従姉なのよ!?」
ヴィニーはソファに腰を下ろし、シャツの襟を正した。
「誘ってきたのはあっちだ。従姉のくせに、お前の目を盗んで夫を誘惑するような女だ。死んで当然だろう?」
怒りで体が震え出した。
「じゃあ、どうして寝たりしたのよ!」
「俺だって男だ」
ヴィニーは両手を広げてみせた。
「向こうから擦り寄ってきたんだ、我慢できるわけがない。それに正直なところ、あいつのほうがベッドじゃお前より楽しませてくれたしな」
もう限界だった。私は彼に飛びかかり、力任せに頬を殴った。
「この人でなし!」
ヴィニーの顔が横を向き、口端から血が滲んだ。ゆっくりと視線を戻した彼の瞳には危険な光が宿っていたが、表情は憎らしいほど冷静なままだった。
「気は済んだか?」
彼は口元の血を指で拭った。
「だが、もうすべて終わったことだ」
不吉な予感が背筋を走る。
「待って……トミーは? 彼はどこ?」
ヴィニーは首を掻き切るジェスチャーをした。
「死んだよ。あっけなくな」
恐怖でじりじりと後退する。
「どうして? なんでそんなことを……」
「あんたは狂ってるわ!」
震える手で携帯を取り出す。
「警察を呼んでやる!」
ヴィニーが一瞬で距離を詰め、携帯をひったくると床に叩きつけた。
「馬鹿なことをするな、ベラ」
彼に手首を掴まれた。骨がきしむほど力が強い。
「何もなかったフリをして、今まで通りの生活を続けるんだ」
「離して!」
必死に抵抗する。
彼はポケットからベルベットの小箱を取り出した。
「今日は結婚千日目の記念日だろう。プレゼントを用意したんだ」
「あんたのガラクタなんていらない!」
「大人しくするんだ」
ヴィニーは急に力を込め、私を壁に押し付けた。
箱が開けられる。中には銀のネックレス。血のように赤い宝石が嵌め込まれている。彼から漂う血の匂いに吐き気がした。
「やめて……」
首を振る。
「じっとしてろ」
声色は優しくなったが、拘束する力は緩まない。強引にネックレスをつけられた。
「それでこそ俺の妻だ」
ネックレスは鉛のように重く、首輪のように息苦しい。
「お前を傷つけようとする奴は、俺が全員殺してやる」
彼は私の耳元で囁いた。
一歩下がり、ネックレスをつけた私を満足げに眺めるヴィニー。その時、視界の端にローテーブルの上の青銅製燭台が映った。
私は小さく頷き、従順を装う。
「わ……わかったわ」
ヴィニーは満足そうに笑った。
「いい子だ、俺の愛しい妻よ」
彼が油断したその瞬間、私は燭台を掴み、
力の限り彼のこめかみを殴りつけた。
「ぐああっ!」
ヴィニーが悲鳴を上げ、額から血が噴き出す。
彼はよろめき、頭を押さえて信じられないという目で私を見た。
私はその隙に部屋を飛び出した。
「ベラ!」
背後で怒号が響く。
「この恩知らずが!」
裸足のまま砂利道を駆け抜け、隣のタウンハウスへ走り込む。窓から明かりが見えた。
ロマーノ教授の家だ。新しく越してきた心理学の教授で、温厚そうな人だった。
私は狂ったようにドアを叩いた。
「助けて! ロマーノ教授! 開けてください!」
返事がない。さらに強く叩く。
「お願いします! ヴィニーに殺される!」
背後から足音が迫る。ヴィニーが追ってきたのだ!
「ベラ、いい加減にしろ」
夜の闇に響く彼の声は不気味だった。
「家に帰るぞ。これが最後のチャンスだ」
私はドアを叩き続けた。
「ロマーノ教授! お願い!」
突然ドアが開き、ロマーノ教授が素早く私を招き入れると、体を盾にするようにしてドアを閉め、重々しい音を立てて鍵をかけた。
「なんてことだ、ベラ! 一体何があったんです?」
濃紺のバスローブ姿で髪は乱れている。私が起こしてしまったのだ。
安堵と恐怖で腰が抜け、私は彼の胸に飛び込んで泣き崩れた。
ロマーノ教授の体がわずかに強張る。彼の呼吸が早くなるのが分かったが、少し躊躇した後、優しく背中をさすってくれた。
「もう大丈夫ですよ。ここは安全です」
一分ほど泣き続け、ようやく少し落ち着きを取り戻す。ロマーノ教授は私の服に付着した血を見て息を呑み、警戒心を露わにした。
「その血は……」
「私んじゃないの」
過呼吸気味に答える。
「ソフィアの血よ……それにトミーも……ヴィニーがあの二人を殺したの。次は私を殺そうとしてる!」
私は途切れ途切れに、今夜目撃したすべてを話した。ソフィアとヴィニーの浮気、惨殺現場、そしてヴィニーの脅迫を。
ロマーノ教授の表情が険しくなる。リビングを行ったり来たりし始めた。
「恐ろしい話だ。すぐに警察を呼ばなければ」
彼は早足でアンティークの電話機に向かい、ダイヤルを回した。
「もしもし、警察ですか? 人が殺されました……二人です……
ええ、緊急です……犯人はまだ近くにいて、私を脅迫しています……」
その時、ドアが激しく叩かれた。
「ベラ、中にいるのは分かってるんだ」
厚いドア越しに聞こえるヴィニーの声は、骨の髄まで凍りつくほど不気味だった。
「今日は俺たちの結婚記念日だろ、忘れたのか? さあ、家に帰ろう」
私はロマーノ教授の背中に隠れ、ドアに向かって叫んだ。
「もう警察を呼んだわ! すぐに来るから!」
ノックが止んだ。恐る恐るカーテンの隙間から外を覗く。ヴィニーの姿は闇に消えていたが、彼がそう簡単に諦めないことは分かっていた。
ロマーノ教授が受話器を置いた。
「ベラ、あなたは『赤毛の刈り取り者』という名を聞いたことはありますか?」
私は首を振る。
「いいえ」
「連続殺人鬼の通称です。ここ六年で五人の女性を殺害している。被害者は全員、赤毛でした」
教授は私の髪を見つめた。
「私は警察の捜査に協力したことがあります。あなたの話を聞く限り、ヴィニーこそがその『赤毛の刈り取り者』である可能性が高い」
頭の中が真っ白になった。
「どういう、こと?」
「あなたは最初から獲物だったのかもしれません。彼があなたと結婚したのは愛ゆえではなく、その赤い髪が目的だったんですよ」
私はソファに崩れ落ちた。
「じゃあ、私は殺されるのを待っていただけだったの?」
「そう考えてはいけません」
ロマーノ教授が慰めるように言う。
「今は安全なんですから」
「警察はいつ来るんですか?」
ロマーノ教授は壁掛け時計を見た。
「もうすぐでしょう。カモミールティーを淹れてきますよ。気持ちが落ち着きますから」
一時間が過ぎたが、警察は来なかった。強烈な睡魔が襲ってくる。まぶたが重い。
「少し横になりますか?」
お茶を持ってきた教授が言った。
「警察が来たら起こしますから」
彼は私を廊下の突き当たりの部屋へ案内した。ドアを開けた瞬間、私は立ち尽くした。
部屋中がピンク色だった。壁紙も、カーテンも、シーツも。化粧品やアクセサリーが所狭しと並んでいる。まるで少女の部屋だ。
「この部屋は……」
違和感が拭えない。
「元恋人の部屋なんです」
教授は少し気まずそうにした。
「改装する機会を逃してしまってね。ここで休んでいてください。毛布を持ってきます」
彼がクローゼットに向かおうとして、ドレッサーにぶつかった。宝石箱が床に落ち、中身が散らばる。
「手伝います」
私はしゃがみ込んで拾い集めようとした。
一束の写真を手に取った瞬間、全身が凍りついた。
一番上の写真。赤毛の少女がこのピンク色のベッドに縛り付けられている。体中に注射器が突き刺さり、苦痛に顔を歪め、その目には絶望だけが浮かんでいた。
震える手で他の写真をめくる。違う顔、違う赤毛の少女たち。どれも惨たらしい死に様だった。
ゆっくりと顔を上げる。ロマーノ教授が私を見下ろしていた。先ほどまでの温厚な眼差しは消え失せ、そこには病的な興奮だけが渦巻いていた。
「見つかっちゃいましたか」
彼はバスローブの襟を整えた。
「本当はもう少し眠らせておくつもりだったんですがね。そのほうが薬の効きがいい」
「あなたが……」
後ずさるが、足に力が入らない。
「あなたこそが、『赤毛の刈り取り者』だったのね!」
