第2章 愛することと愛さないことの違い
家に戻ったころには、もう夕暮れだった。
姑の国分理恵がリビングのソファに背筋を伸ばして座っている。顔色は見るからに険しい。
ローテーブルのタブレットには、ホテルから飛び出してきた国分礼二が名取心美を抱きかかえたまま駆ける映像が、静止画で貼りついていた。
「国分凛。これが、あんたの『処理』なの?」
国分理恵はタブレットをどん、と机に叩きつけ、鋭い視線を突き刺す。
「連れ戻して来いって言ったのよ。ニュース沙汰にしてどうするの! 国分家の奥様でしょう。こんな小さなことも片づけられないの?」
国分凛は目を伏せた。胸の奥に苦いものが溜まっていく。
どう処理しろというのだ。
――あなたの大事な息子さんが、愛しい女のために私を追い払ったんです、なんて。
言ったところで、何になる。
国分理恵の天秤では、息子の重さがいつだって嫁より上だ。途中から家に入った嫁など、なおさら。
「ごめんなさい、母さん。私が、うまくできませんでした」
かすれた声で頭を下げる。
国分理恵は鼻を鳴らした。
「そもそも、おばあちゃんがあなたを国分家の嫁にってごり押ししなきゃ、私は家に入れるつもりなんてなかったの。後始末は自分でやりなさい。国分家の顔に泥を塗らないで!」
吐き捨てるように言い、国分理恵はハンドバッグを掴むと、振り返りもせず出ていった。
国分凛はソファに体を沈めた。全身から力がすうっと抜けていく。
そのとき、スマホがぶるりと震える。
国分礼二からのメッセージだった。
「病院に食い物持って来い。ピーナッツは抜け。心美はアレルギーだ」
画面を見た瞬間、心臓を縄で締めつけられたみたいに息が詰まった。
名取心美のアレルギーは覚えているのに、国分凛が玉ねぎ嫌いなことは、永遠に覚えない。
それが――愛と、無関心の差。
……あと三か月もない。それでも、国分家の大奥様にした約束は守らなければならない。
国分千晴と出会ったのは、国分凛が老人ホームでボランティアをしていた頃だ。
その頃、母は重い病で、治療費がどうしても必要だった。国分凛は一日三つのバイトを掛け持ちして金を作っていた。
大奥様はその姿を見かねて、母の治療費をすべて払ってくれた。
国分凛は涙でぐしゃぐしゃになりながら、必ず恩返しすると誓った。
大奥様は国分凛を上から下まで眺め、ふいに言った。
「あなた、彼氏はいるの?」
その日が、国分凛が国分礼二と初めて「正式に」会った日だった。
学生時代、二人は同じ学校にいた。けれど礼二は眩しすぎて、国分凛など視界にも入らなかった。
学内でも名の知れた存在で、どこへ行っても女の子が視線を送っていた。
国分凛は一目で恋をした。でも自分は目立たない貧乏学生だ。交わるはずがない。
それなのに、大奥様から「嫁に」と言われたとき、ほとんど迷わず頷いてしまった。
三年、底が抜けたみたいに尽くして――ようやく分かった。国分礼二の中に、自分は最初からいなかった。
そして国分凛も、若い頃のように夢を見られなくなった。
大奥様の遺志を果たしたら、身を引こう。
国分礼二と名取心美を、好きにさせればいい。
弁当を用意して病室の前まで来たとき、国分凛は足を止めた。
中では名取心美が国分礼二の胸に寄りかかっている。
名取心美は半身を起こし、分厚い包帯の巻かれた手を見つめながら、赤い目で見上げた。
「礼二……私の手、もう絵筆握れないのかな」
「馬鹿言うな」
国分礼二は髪を撫で、根気よく宥める。
「医者が言ってただろ。軽い捻挫だ。数日安静にすれば治る」
国分凛は扉の前で、ただ立ち尽くした。
病床にいるのが礼二の妻で、自分が部外者みたいだ。
国分礼二がふと視線を上げ、国分凛に気づく。
その瞬間、顔の優しさが消え、いつもの冷えた表情に戻った。
「食い物は?」
国分凛は扉を開けて入り、弁当箱をサイドテーブルに置く。
国分礼二が蓋を開けた途端、眉間に深い皺が寄った。
「サンドイッチ? それだけか」
「外に記者がいます。撮られたら国分グループの株価にも――」
国分凛は淡々と言った。
「お前の頭には株価しかねえのか?」
国分礼二は嘲りを含んだ声で吐き捨てる。
「ほんと、見栄っ張りで金の亡者だな」
国分凛は唇を噛んだ。
「……じゃあ、別のもの買ってきます」
「いらない」
国分礼二が冷たく遮り、サンドイッチを一つ取って名取心美の口元へ差し出した。
名取心美は青白い顔で彼を見上げ、甘えた声を出す。
「礼二、手が痛い……食べさせて」
国分礼二は一瞬迷ってから、唇の前へ運ぶ。
名取心美は幸せそうに一口かじった――が、二、三度噛んだだけで、急に激しく咳き込み始めた。
「げほっ……これ……ピーナッツ……」
胸を押さえ、息が乱れ、苦しそうに顔を歪める。
国分礼二の顔色が一気に沈んだ。
彼は国分凛へ振り向き、問答無用で怒鳴りつける。
「俺、言ったよな? 心美はピーナッツアレルギーだって! なのにわざわざピーナッツバター入れたのか。何考えてんだ!」
「入れてない!」
国分凛は声が震えた。
「信じないなら、あなたが食べればいい!」
国分礼二の目がサンドイッチへ落ち、わずかに迷いがよぎる。
そのとき名取心美が胸を押さえ、苦しげに呻いた。
「礼二……つらい……息が……」
国分礼二の意識が一瞬でそちらへ持っていかれる。
国分凛は、あまりの茶番に笑えてきた。冷えた声で言う。
「やめたら。アレルギーの人がそんなに喋れるわけない」
「黙れ!」
国分礼二は振り向きもせず怒鳴った。
「出ていけ!」
国分凛の心は、底へ底へ沈んでいった。
彼が別の女に見せる焦りの横顔を見つめたまま、何も言えずに踵を返す。
扉を閉める瞬間、病室の中から名取心美のわざとらしい声が聞こえた。
「礼二、凛おねえちゃんにそんなに怒らないで……不機嫌そう……追いかけてあげて。私は大丈夫」
続いて、国分礼二が鼻で笑う音。
「放っとけ。勝手に反省する。すぐ治る」
廊下に立つ国分凛の体が固まった。涙が、勝手に落ちた。
三年。国分礼二は彼女の献身に慣れ、我慢に慣れた。
だから信じ切っている――どれだけ傷つけても、国分凛は離れないと。
国分凛は魂が抜けたようにエレベーターホールへ向かい、病院の正面を出た瞬間、どこから湧いたのか記者に囲まれた。
フラッシュがぱしゃぱしゃと焚かれ、目が開けられない。
「国分夫人、夫婦関係は破綻したんですか?」
「国分社長が深夜、女性とホテルで部屋を取った件、どうお考えですか?」
「離婚されますか?」
国分凛は一歩引いた。頭の中が真っ白になった。
