第1章
雪見千枝(ゆきみ ちえ)が警察署を出たとき、頭の中はまだぼんやりしていた。
朝いちで電話がかかってきて、事情聴取に協力してほしいと言われたのだ。
理由が「彼氏の石川和也(いしがわ かずや)とラブホテルに入ったところを盗撮された件」だと聞かされた瞬間、正直ホッとした。
和也とは最初から約束していた。プラトニックに付き合って、大学を卒業してから――そういうことはそのときにしようって。警察の勘違いだろう、と。
ところが署で映像を見せられた途端、千枝は完全に固まった。
画面の中で絡み合っていたのは、和也と――親友の村田由衣(むらだ ゆい)。
しかも普通じゃない。縛りだの、SMだの、目を疑うような刺激的な光景が続いていた。挙げ句、それがどこかのアダルトサイトに流れていて、再生数はすでに一千万超え。
由衣は仮面をつけていたせいで、警察は反射的に「女の方=千枝」だと思い込んだらしい。
――誕生日の当日に、彼氏と親友に同時に裏切られる。
そんな現実がある?
ポケットの中にある避妊具とホテルのカードキーに触れたとき、こみ上げたのは悲しみよりも、強烈な皮肉だった。
誕生日にサプライズをしようと、縁起のいい日まで選んだのに。驚かされたのは自分の方だった。
避妊具をゴミ箱に投げ捨てようとして、ふと手が止まる。
一番高いやつを買ったんだ。初めてをちゃんと良いものにしたくて。
……なんで他人の過ちのせいで、自分の金まで無駄にしなきゃいけないの。
沈んだ気分のまま歩いていると、スマホが鳴った。
大学の同級生、酒井綾子(さかい あやこ)からで、バーのシフトを代わってほしいという電話だった。
「千枝、お願い! 今日だけバーのシフト代わって! 彼氏がやっとこっち来たの!」
「……みんな揃ってホテル行きたいのに、私だけ代打ってわけ?」
千枝は思わずため息をついた。
断ろうとした、そのとき。
「売上の3割、あげるから!」
「行く」
千枝は深く息を吐いた。
恋がダメでも、金は裏切らない。――そういうことだ。
宝飾デザイン専攻の彼女は、原石の仕入れやら何やらでお金がかかる。だから普段からバーで働いていた。
顔立ちは整っていて、愛想もいい。客受けも悪くない。
しかも今夜は大きなイベントで客数も多い。歩合も跳ねる。
気づけば千枝は、裏切られた痛みすら忘れて、全力で稼ぐモードに切り替わっていた。
人混みの中をすり抜けながら、酒を売っていく。
そのとき、VIP席の西園寺梨乃(さいえんじ りの)が彼女を見つけた。
隣で涼しい顔をしている弟に向かって、梨乃は九条悠(くじょう ゆう)の手から保温ボトルをひったくる。
「悠、バーで白湯って……あんた病気? せっかくの景色と美人が揃ってるのに。おじいちゃんに結婚急かされてるんでしょ? 条件なんて特にないなら、女なら誰でもいいじゃん」
その話題だけは悠の機嫌を確実に悪くする。
彼はボトルを奪い返し、大きく一口飲んだ。
家の後継として育てられて、恋愛なんて考えたこともない。今すぐ結婚しろ? 冗談じゃない。
「でも女なら誰でもいいってわけでもないよねえ。可愛くて、スタイル良くて、いちばん大事なのは――言うこと聞くこと」
梨乃は指をひらひらさせる。
「そこの子、こっち来て」
呼ばれて、千枝は営業スマイルのまま近づいた。
「お客様、何かお探しですか?」
相手の耳元には、L家の最新作のダイヤピアス。
千枝は一番高い酒のメニューを取り出し、にこやかに差し出した。
「こちら、今朝入ったばかりのワインです」
「この子に一杯飲ませたら、そのページ全部買う」
梨乃は悠を横目に見る。悠の顔がさらに黒くなった。
千枝は一目で悟る。
この男――バーで一番扱いづらいタイプだ。
仕立てのいいスーツ。シャツのボタンは上まできっちり。禁欲系の塊みたいな格好。
こういうのは、極端に淡白か、極端に過激か。
彼女はメニューの金額を確認しながら言った。
「お客様、本当に……よろしいんですか?」
「カード。飲んだらこのページ全部」
梨乃が黒金のSVIPカードを差し出す。
千枝は笑顔で受け取り、その流れで悠の隣に腰を下ろした。
すると悠は即座に身体をずらす。
――近づいても触ってこない。悪くない。
千枝は眉をわずかに上げた。
「お客様、私、上に親がいて下に……まあ色々いて。家族全員、私の稼ぎ頼みなんです。ひと口だけでも、お願いできませんか?」
わざとらしく酒杯を持ち上げる。
悠は動かない。ただ黙って彼女を見ている。演技は下手。会社が今年採用した広告モデルの方がよほど自然だ。だが顔は――やけに目を引く。特に瞳。喋りそうなほど綺麗だ。
その視線に千枝は一瞬ひるむ。けれど五桁の歩合が頭をよぎり、笑顔を作り直した。
「マルベックの辛口、いかがです?」
さっき保温ボトルを見た。若く見えるが、実はもう中年なのかもしれない。
身体がついていかないなら、強い酒は苦手だろう。
隣で梨乃が腹を抱えて笑う。
「わあ、見る目ある。こいつ、ダメってわかった?」
「飲まない」
悠は目を上げ、続けて言った。
「……あと金も払わない」
千枝は心の中で歩合の数字を何度も唱え、罵倒を飲み込む。
「では、お客様は何をお飲みになりますか?」
悠が保温ボトルを差し出した。
「白湯」
千枝は歯ぎしりしながら受け取ろうとした――その瞬間。
通りかかった客が彼女の肩にぶつかった。足を取られ、千枝は悠の方へ倒れ込む。
悠は反射的に手を引き、距離を取ろうと後ろへ身を反らしたが、千枝は彼の手首を掴んでしまった。
その刹那、悠の身体に痺れるような感覚が走り、動けなくなる。
ぶつかった客は平謝りし、詫びにと酒を二本注文した。
その様子を見て、千枝の頭にひらめきが落ちる。
彼女はテーブルの酒を手に取り、にっこりした。
「先ほどは助けていただいて、ありがとうございました。私、いただきます。お客様はお好きに」
ぐいっと一杯。
悠は何も言わず、動かない。
千枝は腹を括り、さらに二杯注いだ。
「大恩は言葉じゃ返せません。私が三杯。お客様はひと口だけ。顔、立ててください」
返事を待たずに二杯続けて飲み干す。
大美女がVIP席で三杯一気。周りがざわつき、囃し立てる声が上がった。
悠はその瞳を見つめ、不本意そうに、ひと口だけ飲んだ。
「今日、誕生日なんです。もう一杯、乾杯!」
千枝はさらに三杯あおる。さすがに梨乃も止めに入った。
「美女、そこまでしなくていいって」
だが千枝はすでに酔いが回っていた。どさっと悠の隣に座り込む。
酒のせいか、急に胸の奥がきゅっと痛んだ。
「ほんとに今日、誕生日……」
鼻をすすり、ポケットを叩く。避妊具とカードキーがまだ静かに入っている。
「準備してたのに。全部あのクソ野郎のせい……!」
和也のことが脳裏にちらつき、腹の底がむかむかする。
千枝はコップを取っては飲み、取っては飲んだ。
悠は無表情のまま見ていた。視線は一瞬たりとも、彼女の綺麗な目から逸れない。
梨乃は呆れ果てた。まるで呪いにでもかかったかのように、悠は操り人形さながら千枝の一挙手一投足を追っている。
閉店間際、梨乃がトイレに立った。
戻ってきたとき――席にいたはずの二人が消えていた。
ホテルの薄暗い照明の下。
千枝は目の前の男を見上げて、現実味がなかった。
さっき、ポケットからカードキーと避妊具がなぜか落ちてしまい、周囲の視線のど真ん中に転がった。固まっている間に、隣の男が拾ってくれた。
その整った顔を前に、千枝は魔が差したみたいに口を滑らせる。
「……私と、来る?」
悠は唇を結び――本当に、ついて来た。
予約していた豪華なキングサイズの部屋に入ると、千枝は霞む目で彼の横顔を見つめ、思わず唾を飲んだ。
角ばった輪郭。深い眼。固く結ばれた唇。
和也みたいなクズ男より、ずっとカッコいい。
結局、私だって顔で選んだんだ。
一目惚れと、見た目に釣られるの、どこが違うっていうの。
縁起のいい日。部屋はキャンセルできない。避妊具も買った。しかも目の前にこんなイケメン。
ここで無駄にしたら、罰が当たる。
千枝は一歩近づき、荒くなる息のまま告げた。
「私と寝ても、責任は取らないからね」
悠の瞳が暗く深まる。
次の瞬間、彼は彼女の唇を塞いだ。
