第3章
【九条社長、あの女と絶対何かあるって!】
【社長が人をあんな目で見ることなんてあった? 今まで一度もないよ!】
【梨乃さんのところにも情報ないの? その女神の素顔が知りたい!】
その頃、梨乃は苛立ちながら面接者の履歴書をめくっていたが、ある人物の経歴に目を留めた瞬間、ぱっと表情を輝かせた。
オフィスの内線が鳴り、アシスタントから悠がまだ出社していないと報告を受ける。
梨乃は舌打ちをした。
「会議は任せた。私が探しに行ってくる」
悠のオフィスへ向かい、ノックもせずにドアを押し開ける。
「昨夜、あの後どうしたの?」
彼女と悠は上司と部下であると同時に、従姉弟同士でもある。そのため、言葉を交わすのに遠慮など一切ない。
悠はその質問を完全にスルーし、冷ややかな声で口を開いた。
「用件は」
「会議よ!」
梨乃は歯を食いしばって彼を睨みつける。
「秘書がいないからって、少しは時間くらい守りなさいよ。しかもスマホの電源オフ?」
悠は伏し目がちに、淡々とした口調で返した。
「悪い、昨夜は充電が切れた。……新しい秘書の採用はどうなってる」
前の秘書は三年も彼に付いていたが、自分が社長夫人になれると勘違いし、結果として悠に解雇され、ひどい修羅場を演じた。
それ以来、彼は頑なに秘書を置こうとしなかった。
それが今、自ら話題に出してきたのだ。梨乃は内心で小躍りした。
「誰か気に入った子でもいたの?」
悠の視線が、彼女の手にある履歴書に落ちる。彼は一目で千枝を見つけ出していた。
「新人でもいい」
新人?
梨乃は手元の履歴書に目を落とし、そのまま彼に差し出した。
「この数人は条件も悪くないけど、誰も秘書志望じゃないわよ」
一番上にあったのが、千枝のものだった。
昨日から二人の様子がおかしいと踏んでいたが、今日になって悠がこんなに積極的になるなんて。絶対に何かある。
悠は表情一つ変えずに履歴書に目を通し、指先で一人の名前を軽く叩いた。
「雪見千枝」
そう言うなり立ち上がり、オフィスを出ていく。
梨乃は唇を尖らせた。昨日、彼女を見る目つきからして普通じゃなかった。いよいよ手を出す気なのか。
千枝が最上階へ案内されたとき、その胸中は不安でいっぱいだった。人事部のスタッフは彼女を入り口まで連れてくると、逃げるように小走りで去っていった。
ハッキュウ宝飾の最上階は、一般社員の立ち入り禁止区域だ。ここは会社の二大トップ――悠と梨乃の縄張りである。
この二人の側近でもない限り、誰が好んで上がってこようとするだろうか。
千枝は緊張のあまりスマホを強く握りしめた。もし何か少しでも怪しいことがあれば、すぐに警察を呼ぼうと心に決めていた。
「千枝、入って」
朗らかな女の声が響いた。
千枝は顔を上げて梨乃の姿を認めると、びくっと肩を震わせ、すぐに気まずそうな顔をした。
「……あなた?」
「偶然ね。ほら、入って」
梨乃が人懐っこい笑みを浮かべたことで、千枝の緊張も少しだけ和らいだ。
昨夜のことはただの一夜の過ちだ。あの男だって、わざわざ他人に言いふらしたりはしないだろう。
千枝は二人がどういう関係なのか知らなかったが、目鼻立ちがどこか似ているところを見ると、十中八九親戚だろうと推測した。
ただ、梨乃から社長秘書をやれと言われることだけは、まったくの想定外だった。
「申し訳ありません。私が応募したのはデザイン職です」
千枝はきっぱりと断った。
「それに、秘書の経験もありませんし、私には務まらないと思います」
「履歴書は見たわ。とても優秀だし、秘書だって問題なくこなせるはずよ」
梨乃は口元の笑みを崩さない。
「それに、社長もあなたに満足しているわ」
「社長?」
千枝は腑に落ちない様子で梨乃を見た。社長なんて人物、知るはずもない。
梨乃は両手を広げて肩をすくめた。
「仕方ないのよ、社長命令だから。でも安心して。初任給は上級秘書扱いで、初級デザイナーの四倍出すから」
「えっ?」
千枝は信じられないというように目を丸くした。
四倍? それなら、あと数年もすれば経済的に自由になれるのでは?
「それに、デザイン部の仕事にも参加していいわ。別途歩合も出す。どう?」
梨乃の提示した条件は破格だった。しかし、千枝はなんとか理性を保ち踏みとどまる。
「すみません、私は――」
「じゃあ、まずは社長に会ってから決めたら?」
梨乃は拒否する隙を与えず、彼女の腕を引いて社長室へと向かった。
ガシャン!
二人がドアの前に着いた途端、中でグラスが割れる音が響いた。
千枝の背筋が冷たくなる。
あんな高給を提示してくるなんて、やっぱり裏があったんだ!
逃げるべきか、それとも梨乃を気絶させてから逃げるべきか――そんなことを考えていた矢先、社長室のドアが開き、悠の冷ややかな声が落ちた。
「今すぐ稼働しろ。車を手配して、俺と明朗オークションへ行く」
「え……私が?」
千枝は呆然と彼を見上げ、声まで震わせてしまった。
この人が、ハッキュウ宝飾の社長?
一夜の相手が、自分の直属の上司になるっていうの?
悠は見下ろすように彼女の慌てた瞳を捉え、その首筋にうっすらと残るキスマークに視線を落とすと、わずかに動きを止めた。
彼の返事がないのを見て、梨乃がすかさず口を挟む。
「今日はU国第十二代皇后のサファイアネックレスが目玉なの。うちの会社が狙ってる品でもあるわ」
「宇宙の心……!」
千枝の目が一瞬にして輝きを放った。
このジュエリーオークションは数ヶ月前から大々的に宣伝されていた。それに、王室の宝飾デザインは彼女の卒業論文のテーマでもある。
伝説的なジュエリーを間近で見られるチャンスを前にして、危険だの裏があるだのといった懸念は、すでに頭から吹き飛んでいた。
彼女はぎこちない足取りでエレベーターホールへと走り出し、ふと振り返ると、申し訳なさそうに悠を見た。
「社長……私、運転できません」
「俺が運転する。行くぞ」
悠は大股で彼女の方へ歩み寄った。
梨乃は目を丸くして二人の後ろ姿を見送った。彼女の脳裏に、ある言葉が閃く。
――絶対におかしい!
二人が去った後も、梨乃はまだその場に立ち尽くしていた。アシスタントの小林由利(こばやし ゆり)が近づいてきて、小声で尋ねる。
「どうかされましたか?」
「この千枝って子の資料を全部集めて。いい? 全部よ」
梨乃はぎゅっと拳を握りしめた。頭の中に、現実離れした考えが浮かび上がる。
まさか、あの堅物がついに色気づいた?
その頃、社長の車の助手席に座る千枝は、生きた心地がしなかった。
初出勤の日に社長自ら運転手を務めるなんて、誰が信じるだろうか。
さらに恐ろしいのは、その社長が自分の一夜の相手だということだ。
下半身から伝わる痛みが、昨夜何があったのかを容赦なく突きつけてくる。
千枝はズキズキと脈打つこめかみを押さえた。世界が狂ってしまったとしか思えない。
さっきは『宇宙の心』に気を取られて、無意識のうちに秘書の仕事を断りそびれてしまった。冷静になった今、はっきりさせておく必要がある。
「社長、昨日のことは誤解で――」
「悪かった。初めてだと知らなくて。……傷つけてないか?」
悠は視線を前に向けたまま、少しだけ声を和らげた。
彼は会社へ来る途中でわざわざ調べていたのだ。千枝は確かに積極的だったが、動きはぎこちなく、キスで息継ぎすらできていなかった。シーツに残っていたあの赤い染みを思い返せば、悠にはすべてが腑に落ちていた。
千枝が初めてではないと嘘をつこうとした瞬間、悠の車がカーブを曲がった。
「社長、ここは直進です」
千枝はカーナビを見ながら、小さな声で指摘する。
「先に病院へ行く」
悠の何気ない一言に、千枝の心は激しく波立った。
検査を受けさせる気? それとも、何か病気がないか確かめるため? まさか、無理やり緊急避妊薬を飲ませて、後腐れをなくそうとしているんじゃ……?
そこまで考えが至り、千枝は慌てて弁解した。
「社長、私、昨日言いましたよね……」
「俺の責任は取らない、と」
悠は路肩に車を停めた。木漏れ日に顔が覆われ、千枝からは彼の表情が読み取れない。
「それで、本当に俺の責任を取らないつもりか?」
