第4章
「えっ?」
千枝は目を丸くして、信じられないというように悠を見つめた。
一夜限りの相手から一転して社長となったこの男が、あろうことか自分に責任を取れと言い出すなんて。
千枝はズキズキと痛むこめかみを揉みほぐした。
「社長、てっきり帰られたんだと……もう連絡しないって意味だと思ってました」
「帰ってなどいない。かかりつけの医者を呼ぼうとしただけだ」
悠は彼女をじっと見据えた。
実際、彼は帰っていなかった。昨夜はスマホのバッテリーが切れ、部屋に充電器もなかったため、フロントまでモバイルバッテリーを借りに行っていたのだ。
医者に連絡をつけ、部屋に戻ったときには、千枝はとうに姿を消していた。
彼女を捜すため、悠はわざわざ宿泊記録まで確認したが、チェックインに使われたのは自分の身分証のみで、彼女の情報は一切残されていなかった。
もしかすると本当に縁がなかったのかもしれない――そう思いかけていた矢先、千枝が自分の会社に現れたのである。
悠の口角がわずかに上がる。
「だから、まずは病院へ行って検査を受けよう。いいな?」
その声は優しく、どこか甘やかすような響きを帯びていて、千枝は魔が差したように頷いてしまった。
だが、病院に着いてすぐに後悔した。悠が彼女を連れて行ったのは、よりによって産婦人科だった。
九条家系列の病院とあって、当然のようにVIP待遇を受けることになった――三人の主任医師が、ニコニコと彼女を見つめている。
一通りの診察を終えた千枝は、耳の先まで真っ赤になっていた。茹でダコのように身を縮め、今すぐ穴があったら入りたい気分だった。
「少し裂傷がありますが、そこまで酷くはありません。この薬を朝晩一回ずつ塗ってください」
医師は穏やかな声で言い、ちらりと悠を見た。
「初めてにしては少し激しすぎましたね。しばらくは行為を控えてください」
千枝は目を閉じ、いっそこのまま気絶してしまいたいと本気で願った。
一方の悠は、至って平然とした顔をしている。
「飲み薬はありますか? 食事の制限などは?」
「冷たいものや辛いものは、しばらく避けてください。お身体が回復してからにしましょう。抗炎症薬を出しておきますので、そちらを服用してください」
医師はそう言って、今度は千枝に視線を向けた。
「最近、何かお薬は飲まれていますか?」
「……避妊薬を」
千枝の声は消え入りそうだった。
医師は少し考えてから言った。
「どの種類の避妊薬ですか? 念のため確認してから処方しましょう」
千枝は観念したように、バッグから避妊薬を取り出して手渡した。その薬の箱を見た瞬間、悠の目がスッと冷ややかになった。
――エレベーターホールで彼女が飲んでいたのは避妊薬で、自分はご丁寧に水まで差し出したというのか?
悠が怒っている気配を感じ取り、千枝は彼が面倒を嫌がっているのだと勘違いした。
「説明書には二十四時間以内なら効果があるって書いてありましたから。絶対に妊娠なんてしません!」
必死に弁解する彼女の姿に、悠は視線を外し、何も言わなかった。
医師からさらにいくつかの注意事項を聞き、二人はようやく病院を後にした。
薬を塗ってもらったおかげか、下半身の痛みは少し和らいだ気がする。しかし、悠の冷ややかな表情を前にすると、千枝はますます怖くなった。
もしかして、妊娠して玉の輿を狙っているとか、彼の身分を知っててわざと近づいたとか、そんなふうに思われているんじゃ……?
確かに昨夜の時点で、彼がただ者ではないことには気づいていた。だが、あのときはアルコールの勢いもあって、ただイケメンを捕まえて初めてを捧げたかっただけで、他意は全くなかったのだ。
これから毎日、一夜限りの相手と顔を合わせなければならないのかと思うと、頭を抱えたくなった。
駐車場に着いたところで、彼女は足を止め、すぐには車に乗ろうとしなかった。
悠が怪訝そうに振り返る。
「具合でも悪いのか?」
「違います」
千枝は慌てて首を振り、大きく深呼吸をした。
「社長、私、秘書志望で応募したわけじゃないんです」
「それで?」
悠は助手席のドアを開け、淡々と彼女を見た。
千枝は怯え、無意識に唇を舐めた。
赤く腫れ、少し皮が剥けているその唇を見て、悠はそこにキスをしたときの感触を思い出し、一瞬だけ意識が遠のいた。
彼が黙り込んでしまったため、千枝は不安に駆られた。
「もし採用していただけるなら、デザイン部に戻りたいんです。私、宝飾デザインを専攻しているので」
「千枝、わかっている」
悠は顎でしゃくり、車に乗るよう促した。
「何をご存知なんですか?」
千枝は不思議そうに彼を見た。
昨夜の濃密な時間を除けば、今日会社で顔を合わせたのはせいぜい三分にも満たない。彼が自分の何を分かっているというのか。
「千枝、二十三歳。宝飾デザイン専攻の大学四年生。過去に全国宝飾デザインコンクールで一等賞を二回、大学生国際宝飾コンクールで特賞を一回受賞……」
悠の声は低く、どこか笑みを含んでいるようだった。
会社で書類封筒を抱えた千枝を見た瞬間、彼女が面接に来たのだと察しはついていた。
梨乃の手元には千枝の履歴書しかなかったが、悠はすでに彼女の素性を粗方調べ上げていたのだ。
昨夜、なぜこの女について行ったのかは自分でもわからない。ただ、彼女が自分にとって特別な存在であることだけは確かだった。
彼の言葉を聞いて、千枝は呆然とした。
大学時代の受賞歴まで知っているなんて。履歴書には書いていないことまで含まれている。
だが、目の前の男の身分を思い出し、少しだけ安堵した。
きっと彼の周りには下心を持った女が山ほどいて、一夜の相手の身辺調査をするくらいは日常茶飯事なのだろう。
さっき病院で血を二本も抜かれたのも、もしかしたら感染症の有無を調べるためだったのかもしれない。ということは、悠自身には絶対に病気がないという証明でもあるのでは?
「俺の名前は?」
千枝が考え込んでいると、悠が唐突に尋ねてきた。
「えっと……」
千枝は気まずそうに笑って言葉を濁す。
「面接に来ておいて、社長の名前も知らないのか」
悠は呆れたように鼻で笑った。
千枝はさらに身の縮む思いがした。
今日こそ本当に終わった、と絶望する。
「九条悠だ。俺の名前は九条悠。覚えたか?」
再び響いた悠の優しい声に、千枝は何度も頷いた。
「覚えました、悠……じゃなくて、九条社長!」
彼女は慌てて気をつけの姿勢を取り、もう一度呼び直した。
「九条社長」
悠は心の中でため息をつき、彼女の腕を引いて車に押し込んだ。
「九条社長、あの……」
千枝が口を開きかけた瞬間、悠がふいに身を乗り出してきた。昨夜の記憶を呼び覚ますような彼の匂いが鼻をかすめ、千枝は驚いて身を固くする。
息を潜め、どんどん近づいてくる悠の顔を凝視した。彼の長い睫毛や、微かに笑みを湛えた瞳までがはっきりと見える。
悠はシートベルトを引き寄せ、彼女の横でカチャリと留めると、小さく笑い声を漏らした。
「助手席もシートベルトをしないと、罰金を取られるからな」
千枝はほうっと息を吐き出し、乱れた髪を整えた。
心臓の鼓動がやけに早い。まるでジェットコースターに乗っているかのように、まだ加速し続けている気分だった。
しばらくして、彼女はハッと我に返った。さっきまで異動の話をしていたはずなのに、どうして途中で終わってしまったのか。
信号待ちの間に、彼女は悠の方を向いた。
「九条社長、やっぱり私、秘書の仕事は……」
「オークションが始まる。まずは出品リストを見て、目当ての品を覚えておけ」
悠からタブレットを渡され、画面に目を落とした千枝は、一枚目に表示された『宇宙の心』の写真を見て、出かかった言葉をすべて飲み込んだ。
どれだけの人が一生かかってもお目にかかれないような王室の至宝。せめて一度くらい、この目で拝んでおきたいではないか。
