第1章

絵里視点

スマホを握りしめ、今週末の予定についてどう切り出そうか考えながら、私は悟の研究室へと向かう。

ほとんどの学生が週末めがけて帰り支度を終えた金曜の夕方、S大化学棟の空気はいつもとどこか違っていた。

『明日、お母さんとお父さんが出張から帰ってくるから、夜ご飯のこと、相談しなきゃ』。これまで何百回も繰り返してきた、ありふれた兄妹の会話。でも最近は、そんな些細なやりとりさえも、どこかぎこちなく感じてしまう。

研究室のドアを押し開けると、そこには悟が何やら複雑そうな装置に向かって身をかがめ、完全に作業に没頭している姿があった。保護ゴーグルを額に押し上げ、少ししわの寄った白衣を纏い、指先で繊細に何かミクロ単位の部品を調整している。彼らしい、その見慣れた姿は、すごく綺麗で……私は思わず足を止めた。

「悟?」

繊細そうな作業の邪魔をしないように、そっと声をかける。

悟は実験から目を離さないまま人差し指を一本立てた。「悪い、絵里。あと二分。今、一番大事なところなんだ」

私は、彼が部屋の隅に設けた小さな応接スペースに腰を下ろした。椅子が二脚とコーヒーテーブルが一つ。普段は化学雑誌や飲みかけのコーヒーカップで埋まっているそこが、今日に限っては比較的片付いている。たぶん、また徹夜でもしたんだろうな。

『梨乃なら今夜、ネットフリックスに付き合ってくれるかも』

梨乃にメッセージを送ろうとスマホを取り出す。彼女の連絡先を探して画面をスワイプした、その時。手の中でスマホがつるりと滑り、止める間もなく、間違えて悟とのチャットスレッドをタップしてしまっていた。

「やばっ!」

思わず声が漏れる。

どういうわけか、スマホの自動修正機能が、『今夜、何か一気見しない?』と打つつもりだったメッセージを、『今夜、一緒に過ごさない?』というとんでもない文章に変換してしまったのだ。

『最っ悪!!!』

問題のメッセージを睨みつけながら、恥ずかしさで顔から火が出る。悟はきっと、義兄に言い寄るヤバい女だと思うだろう。

「そっちは大丈夫か?」悟が振り返らないまま声をかけてきた。

「う、うん、大丈夫」

内心でこの大失態をどう説明すべきかパニックになりながらも、私はなんとか声を絞り出した。

「ちょっと手、洗ってくる。すぐ戻る」

そう言うと、悟はついに実験装置から離れた。

彼が角を曲がって姿を消した瞬間、私は弾かれたように立ち上がった。彼のスマホが、机の上に置きっぱなしになっている。以前から知っていたことだが、悟はロック画面を設定しない主義なのだ。『人を信じすぎだよ』と、よくからかったものだけど、今この瞬間ばかりは、彼のその無防備さに心から感謝した。

『メッセージを消して、何もなかったことにすればいい』。そう決めて彼のスマホを手に取ると、自分の手が微かに震えているのがわかった。

画面はすぐに明るくなり、メッセージの一番上に、私とのトーク画面が表示された。

だが、あるものが目に飛び込んできて、私は凍りついた。

送り主、つまり私の名前が、『絵里』ではなかったのだ。

そこには――『フェネチルアミン』とあった。

『フェネチルアミン』。

悟に比べれば、私の化学の知識なんてたかが知れている。だけど、この化合物が何を意味するのかくらいは、私にだってわかる。

それは、“恋の分子”。恋に落ちた時の、あの幸福感に関わる神経伝達物質だ。

『ええ……どういうこと?』

画面を見つめたまま、頭の中がぐちゃぐちゃになる。悟はスマホの中で、私のことを『フェネチルアミン』と登録していた。その意味に気づいた瞬間、これまで私たちが築いてきたと思っていた関係のすべてが、根底から覆されるような衝撃を受けた。

この三年間、悟は私に対して丁寧ではあるけれど、どこか無関心なのだと、ずっと思っていた。何かを頼めば助けてくれるし、会話だって当たり障りなく楽しい。だけど、そこにはいつも、慎重に引かれた一本の線があった。

きっと彼は、私がタイプじゃないからだ。あるいは、彼の気を引く価値もない、ただの学生の一人としか見ていないからだ。そう自分に言い聞かせてきた。悟がどうしてそんなにも私を遠ざけようとするのか、眠れない夜を幾度となく過ごしてきた。

でも、『フェネチルアミン』? これは、どうでもいい相手につけるニックネームじゃない。

『まさか……?』その考えはあまりにも大きすぎて、圧倒的すぎて、すぐには受け止めきれない。『悟は、ずっと……?』

廊下の外から足音が聞こえ、パニックが全身を駆け巡った。私は急いでスマホを元の場所に戻す。悟が戸口に再び姿を現したとき、私の心臓は肋骨を激しく打ちつけていた。

「悪いな」悟はペーパータオルで手を拭きながら言った。彼の視線はすぐに机の上、そして私へと移り、スマホの位置がほんの少しだけずれていることに気づいた瞬間を、私ははっきりと見て取った。

彼はスマホを手に取る。そして、私たちのトーク画面が開かれているのを見て、その表情が変わるのを私は見つめていた。誤爆されたテキストメッセージを読み、彼の眉がひそめられ、何か複雑な感情がその顔をよぎった。

「絵里」彼は慎重に口を開いた。「俺のスマホ、触ったか?」

喉が渇く。「……うん。ごめん、悟! あのメッセージ、悟に送るつもりじゃなかったから消そうと思って、見られる前に直したくて、それで.......」

「俺に送るつもりじゃなかったって、どういう意味だ?」彼の声は静かだったが、その奥に、私には判別できない何かが潜んでいた。

今だ。事故だったこと、あなたの連絡先名を見てしまったこと、私が知っていたつもりのすべてが粉々に砕け散ったことを、ありのままに伝えるなら、今しかない。でも、言葉が喉に詰まって出てこない。もし、私の勘違いだったら? もし、『フェネチルアミン』が全く別の意味だったら? 私が、存在しない何かを深読みしているだけだったら?

「他の人に送るつもりだったの」そう言っている自分の声が聞こえた。「私が……私が好きな人に」

悟はぴたりと動きを止めた。

「そうか」長い沈黙の後、彼は言った。その声はどこか違って聞こえた。虚ろに。「……わかった」

『違う、わかってない』。言葉が頭の中で叫んでいるのに、声に出すことができない。

「そろそろ行かなきゃ」これ以上状況を悪化させる前に逃げ出したくて、私は早口で言った。「やらなきゃいけないこと……思い出しちゃったから」

「ああ」悟はスマホを置き、実験装置の方へ向き直ったが、その肩に緊張が走っているのが見て取れた。「週末の予定は、また後で話そう」

私は研究室から逃げるように飛び出した。建物のドアを突き破って外に出ると、冷たい空気が顔を撫でたが、頭の中の混乱を少しも晴らしてはくれなかった。

『フェネチルアミン』。

その言葉が、壊れたレコードのように頭の中で繰り返される。歩くのをやめ、街灯に寄りかかり、化学棟を見上げた。悟の研究室の窓はまだ明かりが灯っていて、深まる闇の中に温かい黄色の四角を描いている。

『もし、本当に彼が……?』そこから先の考えをまとめることができない。その可能性はあまりにも巨大で、人生を変えてしまうほどで、完全には受け入れられなかった。

スマホが震え、梨乃からのメッセージが届く。「うちで映画ナイト! お菓子持ってきて!」

一瞬、行こうかと思った。何も考えずに娯楽に没頭し、今夜の出来事などなかったことにする。でも、あの連絡先名と、それが意味するかもしれないこと以外、何も考えられないだろうことはわかっていた。

もう一度、彼の窓を見上げる。明かりはまだついていて、研究室内を動き回る彼のシルエットが見える。明日には両親が帰ってきて、私たちはいつもの家族の力学に戻るだろう。でも、今やすべてが違って感じられる。私が探求する勇気があるかどうかわからない可能性に満ちている。

もし本当に悟が私に好意を寄せているとしたら、三年前のあの言葉はいったい何だったのだろう? あの時から、彼と距離を置くようになった。もしかしたら、私たちが初めて会った五年前から、考え直すべきなのかもしれない。

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