第3章
絵里視点
化学実験室に向かいながら、私はほとんどつま先で跳ねるような足取りだった。手には実験レポートと、ゆうべ半徹して完成させた詳細な計画書を握りしめている。
その計画は、単純にして明快、我ながら見事なものだった。「追加単位のための研究」とでも称して、彼と二人きりになる絶好の機会を作り出す。彼がその餌に食いつくかどうか、それを見極めるのだ。もし彼に私への気があるのなら、必ずや何かしらのアクションを起こすはず。もしそうでなければ……まあ、少なくとも、自分の立ち位置が明確になる。
『ふふ、私ってば、天才すぎ』
満面の笑みを浮かべ、作戦決行の準備万端で実験室のドアを押し開ける。けれど、悟の姿を見た瞬間、輝かしい計画は粉々に砕け散った。
彼は実験台に突っ伏していて、まるで頭を支えきれないかのように腕に顔をうずめている。部屋の向こうからでも、顔が真っ赤に上気しているのがわかった。
「悟?」興奮はすぐに心配へと変わり、私は声をかけた。「ひどい顔よ。どうしたの?」
彼がゆっくりと顔を上げると、その瞳は焦点が合っておらず、ガラス玉のようだった。『マジで……こいつ、病気じゃない?』
「ちょっと体調が悪いだけだ」と彼はつぶやいたが、声はかすれて弱々しい。「多分、熱があるんだと思う。でも、先にこの実験結果を整理しないと」
「あんた、バカじゃないの!?」私は近くのテーブルに書類を放り出し、彼のもとへ駆け寄った。「すごい熱じゃない。自分の健康より大事な実験なんてあるわけないでしょ?」
『作戦は後回し。今は悟を助けなきゃ』
手の甲を彼の額に当てると、間違いなく高熱を出していた。肌と肌が触れ合った瞬間、不意に電流が走ったけれど、その感覚は脇に追いやる。『不謹慎なこと考えてる場合じゃない』
「家に帰りなさい。今すぐに」私は彼の持ち物を集め始め、ろくに見もしないで書類をバックパックに突っ込んだ。「ほら、私が車で送ってあげるから」
「絵里、そんなことしなくても.......」
「口答えしないの」私は椅子の背もたれにかかっていた彼の上着を掴んだ。「最後に何か食べたのいつ? 水は飲んだの?」
悟が立ち上がろうとして、すぐに足元がふらついた。私は彼の腕を掴んで支える。私に寄りかかる彼の体の重みに、心臓が跳ねた。『集中しなさい、絵里。彼は病人よ』
「ありがとう」彼は必要以上に私に体重を預けながら、ささやいた。「どうしちまったんだろうな。今朝はなんともなかったのに」
「そういうものなのよ。ついさっきまで元気だったのに、次の瞬間にはもう、まともに立っていられないほどになるんだから」私は彼の腕を自分の肩に回させ、そのほとんどの体重を支えながら、ドアへと向かった。
「私の車、立体駐車場に停めてあるから」
悟がほとんど一歩もまともに踏み出せないせいで、車までの道のりは永遠に感じられた。彼は私に重くもたれかかっていて、体側が彼の体の全ラインを押し付けてくるのを感じる。肩に回された腕、一歩ごとにぶつかる腰、無意識に私の首筋にすり寄ってくる仕草。
『これじゃ集中できないんですけど』
「絵里……」耳元で囁かれた声に、背筋がぞくっとした。「ありがとう」
「バカなこと言うな。看病するに決まってるでしょ」私は、たぶん少し大きすぎる声で言った。「さっさと家に着きましょ」
悟はただ「ん」と応えるだけで、私が彼を助手席に乗せるのを手伝うと、彼の頭は私の肩にこてんと落ちた。一瞬、こんなに近くに彼がいることに体が凍りつく。彼の顔はほんの数センチ先にあって、呼吸するたびに唇がわずかに開いている。
『彼は病人だ』と、私は自分に固く言い聞かせた。『病人には医療的な手当てが必要なのだ。これは、あなたのホルモンに振り回された十代の妄想などではない』
悟のアパートまでは車で十五分のはず。私はそれを十分で着いてやろうと決意した。
でも、悟がじっと私を見つめてくるせいで、運転に集中するのが難しい。私の顔に注がれる彼の視線を感じる。まるで私の横顔の細部まで記憶に刻み込もうとしているみたいに。私がちらりと彼の方を見るたびに、彼はどこか優しくて、夢見るような表情で私を見ている。
『熱のせいよ』と私は自分に言い聞かせる。『病人は意識が朦朧とするもの。何の意味もない』
「絵里」いつもよりしゃがれた声で、彼が静かに言った。「綺麗な」
ハンドルを握る手に力が入る。「うわ言よ。水でも飲んだら?」
「うわ言じゃない」彼は手を伸ばし、そっと私の腕に触れた。「ずっと前から、お前にそう言いたかったんだ」
『うそでしょ』心臓が激しく鳴り始め、彼の顔ではなく、必死で道路に視線を戻す。「悟、熱があるのよ。まともに考えられてないんだから」
「もしかしたら、熱があるからこそ、ずっと考えてたことを言う勇気が出ただけかもしれない」
彼の声に含まれた真剣さに、胸が締め付けられる。『これって、まさに私が望んでいたことじゃない? 彼が私に興味を示してくれること』でも、いざそれが現実になると、彼がどれだけ弱っているか、体調が悪い時につけこむのはどれだけ間違っているかということばかり考えてしまう。
「今はとにかく、あなたの体を治すことに集中しましょ、ね?」私は彼の上着のポケットを探ってアパートの鍵を探した。指が彼の胸に触れる。少し手が震えながら、彼のアパートの敷地へと車を乗り入れた。
悟のアパートは、まさに私が想像した通りだった。清潔で、整理整頓されていて、あらゆる場所に教科書がきれいに積み重ねられている。私は彼をソファまで連れて行くと、すぐに体温計と薬を探してせわしなく動き回った。
「熱、三十八度四分もあるじゃない」体温計を確認して、私は告げた。「最後に何か薬飲んだの?」
「飲んでないと思う」彼は、私が薬棚を漁っているのを見ながら認めた。「俺、病気になると自分の面倒見れなくなるんだ」
「まあ、運が良かったわね、私がいて」私はイブプロフェンを見つけ、水と一緒に彼に渡した。「これ飲んで。それと、何か食べないと。キッチンに何がある?」
『私、ちょっとお節介すぎるかも。でも、悟がこんなに辛そうなのを見てると、自分でも知らなかった母性本能みたいなものが全部出てきちゃう』
「あんまり食べ物ないと思う」と彼は申し訳なさそうに言った。
「簡単なもの作るわよ。スープか、トーストか……」ほとんど空っぽの冷蔵庫の中身を確認して、私は言葉を失った。「オーケー、スープね。チキンヌードルなら、材料ギリギリ足りそう」
コンロの前に立ち、鍋のスープをかき混ぜながら、この状況がどれだけ所帯じみて聞こえるか考えないようにしていた、その時。
不意に、後ろから腰に腕が回された。






