第2章
蓮が私をその腕に抱きしめた瞬間、神様が私の祈りを聞き届けてくれたのだと思った。
彼は私の口に押し込まれていた布を取り外してくれた。私は大きく息をあえぎ、涙で視界が滲んだ。屈強な黒服の男たちは目配せをし、屋敷の中にいる義父の颯人と義母の美晴子の指示を仰ぐように視線を送っている。私は蓮の袖を死に物狂いで握りしめた。指の関節は白く濁り、全身が激しく震えていた。
「蓮……やっと帰ってきてくれた……助けて!」
声は掠れ、自分でも誰の声か分からないほどだった。
「お願い、私たちの子供を助けて! 私、妊娠してるの。でも、あの人たちが無理やり中絶させようとして……ッ」
彼は私を見下ろし、涙に濡れたその顔を確認すると、瞳に微かな怒りの色を滲ませた。
そして顔を上げ、入り口に立つ両親を見据えて、低く強張った声で尋ねた。
「父さん、母さん、これは一体どういうことだ。なぜ彼女に中絶を迫るんだ」
義父の颯人は冷ややかな視線を返すだけで、一言も発さない。義母の美晴子は顎を僅かにしゃくり、礼拝堂の方へと視線で合図を送った。
私は溺れる者が最後の流木にすがりつくかのように、必死に蓮の腕にしがみついた。
彼は私を深く愛してくれている。私と、私たちのお腹の子供を絶対に守ってくれる。
その時の私は、そう自分に言い聞かせていた。
蓮は礼拝堂へと視線を向けた。
薄暗い室内では、揺らめく蝋燭の炎が影を踊らせていた。陽菜がたった一人、十字架の前に跪いている。車椅子に座ったまま、それでも無理に上体を前へ屈め、両手をきつく組み合わせながら、激しく肩を震わせていた。よく目を凝らしてみれば、彼女の青白い顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れ、唇は微かに震え、まるで何かを低く祈り続けているかのようだった。
それは極度の恐怖と苦痛、そして罪悪感に苛まれた表情――まるで魂そのものが引き裂かれているかのような凄絶な姿だった。彼女は震える手を持ち上げて十字を切り、深く頭を垂れ、体を小さく丸めた。傷つき、逃げ場のない隅へと追い詰められた一匹の獣のように。
蓮の瞳孔が急激に収縮し、呼吸が荒くなる。
彼は礼拝堂を見つめ、それから再び入り口に佇む両親へと視線を戻した。
「蓮……」
不吉な予感が胸をよぎり、私はすがるように名前を呼んだ。
彼はゆっくりと俯いた。
数秒の沈黙が流れる。
やがて、彼は私の方へ向き直った。私が深く愛したその顔からは、先ほどの怒りも優しさも完全に消え失せていた。代わりに浮かんでいたのは、氷のような冷淡さと、残酷なまでの決意だった。
彼の手が持ち上がる。
そして、私の指を一本、また一本と引き剥がし、自らの袖から遠ざけた。
その動作はひどく緩慢でありながら、一切の容赦がなかった。
「蓮……あなた……何をしてるの?」
私の声は震えていた。
彼は顔を背け、私と目を合わせようとはせずに、低く掠れた声で言った。
「知世……中絶してくれ」
その言葉は鋭い氷の刃となって、私の心臓を真っ直ぐに貫いた。
私は弾かれたように彼に飛びかかり、その胸倉を両手で掴んで、掠れた声で絶叫した。
「何を言ってるの!? 蓮、頭がおかしくなったの!? あなたの実の子なのよ! DNA鑑定の結果だってはっきり出てるじゃない! どうしてこの子を殺そうとするの!?」
涙で視界が滲む中、私は礼拝堂を指さし、金切り声を上げた。
「陽菜のせい!? 車椅子のあの女が初恋の人だから!? 彼女が礼拝堂で泣いてるからって、それだけで自分の血を分けた子供を殺すっていうの!?」
「彼女がこの家に住んでても、私、一度だって嫉妬なんかしなかった! それなのに……ッ! 障害のある元カノのために、自分の子供まで殺すっていうの!?」
彼の顔は青ざめ、こめかみには青筋が浮かび上がった。その瞳には、図星を突かれた羞恥心と、長年抑圧されてきた怒りがギラギラと渦巻いていた。
彼が唐突に手を振り上げた――。
乾いた破裂音が響き、私の頬に強烈な平手打ちが叩き込まれた。
その衝撃で、私は床へと殴り倒された。
エントランスホール全体が、一瞬にして静まり返る。
冷たい床に倒れ伏したまま、頬の焼け付くような痛みを感じ、口角からは血が滲んだ。私は頬を押さえ、信じられない思いで彼を見上げた――「ずっと守るよ」と、かつて私に誓ってくれたこの男を。
蓮の手は硬直したまま宙を彷徨い、力を込めた指の関節が白くなっている。床に倒れた私を見下ろす瞳には、一瞬だけためらいと苦痛の色がよぎったが、すぐにそれ以上の深い冷淡さによって塗り潰された。
彼は背を向け、二度と私を見ようとはせずに、鉄のように冷たい声で言い放った。
「ヒステリーを起こすな。病院へ行け」
「何をぼやっとしている」
颯人が苛立たしげに手を振った。
「さっさと連れて行け」
屈強な男たちが一歩前に出ると、力なく崩れ落ちた私の体を両脇から掴み上げ、出口へと引きずり始めた。
私は必死に身をよじって抵抗し、蓮を振り返った。骨の髄まで染み込むような絶望と憎悪を両の瞳に宿して。
「蓮! あんたなんか大嫌いよ! 父親になる資格なんてない! 絶対に天罰が下るんだから!」
蓮は背を向けたまま、ピクリとも動かずに立ち尽くしていた。ただ、きつく握りしめられた拳だけが彼の内なる動揺を物語っていた――だが、それが罪悪感によるものなのか、それとも恐怖によるものなのか、私には知る由もなかった。
私は屋敷の門の外へと引きずり出された。
外には一台の白い救急車が停まっており、赤い警告灯が音もなく点滅していた。これは義父母が手配したものだ――普通の病院の救急車ではない。彼らが息のかかった個人クリニックから買い上げた、「内輪の揉め事」を処理するための専用車だった。
その車を見た瞬間、私の全身が激しく震え上がった。
過去二回の手術の記憶がフラッシュバックする――手術台に押さえつけられ、冷たい金属の器具が体内へと侵入してくる感覚。身を引き裂かれるような激痛と、空っぽになってしまったという絶望感……。
嫌だ、三回目なんて絶対に耐えられない!
私は男の手に思い切り噛みついた。男が痛みに顔を歪めて手を離した隙を突き、死に物狂いで反対方向へと駆け出す。
だが、いくらも逃げないうちに、別の男が私の髪を鷲掴みにして強引に引き戻した。
「離して! 離してよォッ!」
私は必死に暴れ、爪を立てて男の手を掻き毟り、血が滲むまで抵抗した。
救急車の後部ドアが開き、中では医療スタッフが無表情で待ち構えていた。ズズル、ズズルと地面に二本の長い足跡を残しながら、私は車へと引きずり込まれていく。
「嫌ァァァッ! 助けて! 誰か助けてえぇぇぇッ!」
私は絶望の底から泣き叫んだ。
まさにその時だった――。
遠くから一台の車が猛スピードで走り込み、屋敷の門前で急ブレーキをかけた。タイヤがアスファルトを激しく擦り、鼓膜を劈くような摩擦音が鳴り響く。
ドアが荒々しく開かれ、中年の男女が転がるようにして飛び出してきた。
私のお父さんとお母さんだ!
「知世! 私の娘に何をするの!」
母が悲鳴のような声を上げて駆け寄り、私を捕まえていた男を勢いよく突き飛ばした。
「離せ! さもないと警察を呼ぶぞ!」
父が怒号を飛ばし、震える手でスマートフォンを取り出す。だがその手は真っ直ぐに、男たちへと向けられていた。
私はその場にへたり込み、堰を切ったように涙を溢れさせた。
今度こそ……やっと助かったんだ……
