第1章
「安田歌子! 今回書いた新曲、必ず遥に歌わせろ!」
安田歌子は目を覚ましたばかりだった。耳に飛び込んできたその怒鳴り声は、あまりにも聞き慣れている。脳内で記憶がじわじわと重なり合い――そして理解した。
(私、戻ってきたんだ。生まれ変わった……)
扉のほうへ視線を向けると、次の瞬間、沈村深が勢いよく踏み込んできた。
入ってくるなり、男は苛立ちを隠さず責め立てる。
「いつからそんなに言うこと聞かなくなった!?」
安田歌子は可笑しくなって、口元だけで笑った。
「私が書いた歌よ。なんで沈村遥に譲らなきゃいけないの?」
沈村深は、安田歌子が反論してくるとは思っていなかったのだろう。歌子は昔から従順で、彼の頼みを断ったことなど一度もない。
男はひとつため息をつき、声の調子を少しだけ柔らげた。
「遥は今、上り調子なんだ。この曲があれば金曲大賞を狙える。あいつにとって大事なんだよ!」
「私にとっても大事」
安田歌子はゆっくりとベッドから身を起こした。
「どうして、いいものはいつもあの子に譲らなきゃいけないの? 私のほうが、あなたの本当の妹でしょう?」
沈村深は眉をひそめる。
「お前たちはどっちも俺の妹だ。実の子だ養子だなんて、今さら言うな」
安田歌子には分かっていた。それは沈村深が沈村遥を甘やかしているから言える台詞だ。遥が養女だと指摘されるのが、彼は何より気に入らない。
安田歌子が四歳のとき、沈村深は菓子の袋欲しさに、彼女を人攫いに「手渡した」。――そして二年前になってようやく、彼女は「家」に連れ戻された。
その間、両親は沈村遥を養子に迎え、実の娘と同じように可愛がってきた。
歌子が戻ってきたあとも、口では「これからは大事にする」と言うくせに、歌子が欲しいもの、好きなもの、手にしたいものは、何もかも先に遥へ回された。
歌子には音楽の才能があった。沈村家に戻る前から、自分の力だけで芸能界に足場を作っていた。それなのに帰ってからは、彼女が書いた曲はすべて沈村遥に奪われた。
家族に愛されたい一心で、嫌われるのが怖くて、悔しさも屈辱も飲み込んできた。――だが前の人生で、遥と一緒に交通事故に遭ったとき。
誰もが真っ先に遥を助けに行き、より重傷だった歌子には、誰ひとり手を伸ばさなかった。
そのせいで治療が遅れ、彼女は死んだ。
(もう、二度と同じことはしない)
安田歌子は引き出しに入れていた録音ペンを、悟られないようポケットへ滑り込ませた。
ひらめいたメロディをすぐ記録できるようにと持ち歩いていたものだ。さっき新曲のデモを録っていたせいで、電源も切れていない。
「新曲は、沈村遥には歌わせない」
そう言いながら、歌子はリュックを取り出し、手早く荷物をまとめはじめた。
「賞が欲しいなら、自分で書けばいいでしょ。兄に甘えて可哀想ぶって、人の努力を横取りしてばかりだと――いつか痛い目を見る」
「お前……!」沈村深の顔色がさっと沈む。「遥ちゃんが曲を書けるなら、お前に頼む必要なんてないだろ!」
「ええ、その通り」
安田歌子は荷物をまとめ終え、リュックを肩に掛けた。沈村深へ皮肉っぽく小さく笑う。
「私がそんなに曲を書けるなら、あなたたちに頼る必要もない。沈村深――あなた、今日から私のマネージャーじゃない。解雇よ!」
歌子が沈村家に戻ってから、前の事務所とは契約を切り、沈村深が彼女と遥、二人のマネージャーになっていた。
家族だから、契約書など交わしていない。だから口頭だけで十分だ。
「……お前、頭がおかしくなったのか?」
怒りと驚きがない混ぜになった声。歌子が彼に盾突くなど、初めてだった。
安田歌子はこれ以上の押し問答に付き合う気はなく、さっさと部屋を出た。背後で沈村深が何度呼び止めても、振り返らない。
リュックは軽かった。中身はまだスカスカで、詰め切れてすらいない。
それが、この二年間、沈村家で歌子が手にできた「すべて」だった。
(……笑える)
前世で惨めに死んだあとを思い出す。愛が欲しいのに一度も与えられず、強い怨みと悔しさを抱えたまま死に、魂だけの存在になって異界を漂った。
肉体はない。飢えも感じない。あるのは黒い闇と、胸いっぱいの怨念だけ。
そんな中で、ひとつの声を聞いた。
――復讐の機会をやろう。それで怨みを手放し、新しい命としてやり直せるか。
安田歌子は迷わず頷いた。
こうして彼女は、事故の一年前――まさにこの瞬間へ送り返された。
ただし期限は一年。復讐を果たし、そのうえで自分で寿命を延ばす方法を見つけなければならない。
期限が来て延命できなければ、また怨念に満ちたあの世界へ戻る。二度と新しい命は得られない。
安田歌子は、自分にしか見えない腕の数字に目を落とす。
――365。
(無駄にしてる暇はない)
沈村家の連中に構っている時間などない。生き延びるための道を探さなくては。
階下へ降りると、両親と四人の兄がダイニングに揃っていた。時計はちょうど昼食の時間。しかし誰も歌子を呼びに来てはいない。
昔の歌子なら、家族に好かれたくて、一人ひとりの好みを必死に覚え、時間があれば台所に立った。
それでも、誰も彼女の努力を大切にしなかった。
「考え直したの?」
沈村母は家政婦に指示し、ステーキを追加で並べさせると、責めるような目を歌子へ向けた。
「最初から新曲を遥ちゃんに譲ればよかったのよ。余計な騒ぎを起こして、みんな気分が悪くなるだけじゃない」
安田歌子は落ち着いた足取りで階段を下りる。
「私は、譲るなんて言ってない」
「……っ!」
沈村母の顔が険しくなり、手にしていたナイフとフォークがテーブルへ叩きつけられる。がちゃん、と乾いた音が響いた。
「いい加減にしなさい! 物事には限度ってものがあるでしょう!」
「限度がないのはそっちでしょ」
安田歌子は一歩も引かない。
「新曲を差し出せって迫って、断れば文句と嫌味。あなたたちのほうが、やり方に節度がない」
その態度に、家族全員が凍りついた。
歌子がこんなふうに牙を剥くなんて、いつ以来だ。
沈村母はさらに顔色を悪くする。
「遥ちゃんは本来、沈村家の長女だったのよ。あなたが戻ってきて、あの子の居場所を奪った。少しくらい埋め合わせをするのが筋でしょう?」
「よくもまあ、そんなふうにねじ曲げられるわね」
安田歌子は鼻で笑った。
「本物の娘は最初から私。居場所を奪ったのはあの子のほうでしょ。それがいつの間にか、私が奪ったことになるんだ」
長男の沈村川人が見かねたように、冷えた顔で前に出た。
「結局、お前は遥ちゃんに当てつけたいだけだろ。自分の席を取られたって」
「説明する価値もない」
安田歌子は冷たく笑う。
「そこまであの子が大事なら、これからは妹は一人でいいでしょ」
沈村母が眉を寄せた。
「それ、どういう意味?」
「今日から私は沈村家の人間じゃない。私を見つけたことも、なかったことにして。――この二年間も、全部、私が見た悪夢だったってことにする」
沈村家での日々を「悪夢」と言い切られ、沈村母の機嫌はさらに悪くなる。
「沈村家のお嬢様になれるのが、どれだけの幸せだと思ってるの! それを悪夢だなんて……あなたに良心はないの?」
「その幸せは沈村遥にあげる。私は要らない」
そう言い残し、歌子は踵を返した。
すると沈村深が階段を駆け下りてきて、冷たい声で言い放つ。
「ふざけるのも大概にしろ! 家出で俺たちを脅すつもりか? 困るのはお前だけだぞ。よく考えろ、沈村家を出たら、また苦しい暮らしに戻るしかないんだ!」
「……あなたも知ってるんだ。私が、何年も苦しんできたって」
安田歌子はゆっくり振り向いた。眼差しの冷たさが刃物のように沈村深へ突き刺さる。
「当時、あなたが欲を出して、私を菓子の袋と引き換えにしたから……人攫いに連れていかれたんでしょ?」
沈村深は息を呑んだ。歌子は「追及しない」「もう二度と口にしない」と約束したはずだったのに。
沈村母とほかの兄たちは、その話を知らなかった。驚いた顔で沈村深を見つめる。
「次男……それ、本当なの?」
