第3章
「何してる?」
陸原吉弘の声は低くて穏やかで、いつだって人をくすぐるような気だるさをまとっている。
前の人生の安田歌子は、陸原吉弘が話す声が大好きだった。
けれどこの人生では――ただ、吐き気がするだけだ。
「あなたに関係ないでしょ」
陸原吉弘は一瞬、言葉を失った。安田歌子がこんなにも刺々しい口調で返したのは、これが初めてだ。
だがすぐに思い当たる。新曲の件で、胸の中が落ち着かないのだろう。
「機嫌が悪いのは分かってる」陸原吉弘は柔らかく言った。「でもね、分かってほしい。深お兄さんは君の家族だ。あの人の決めることは全部、君のためなんだよ」
安田歌子は心の中で冷たく笑う。
やっぱり。沈村遥の肩を持ちに来たのだ。
前の人生でも、陸原吉弘は電話で安田歌子を説得した。あの時の彼女は彼を心から信じていて、言われるがまま新曲を沈村遥に譲った。
結果、その曲は発売と同時に爆発的に跳ね、あっという間に各種音楽ランキングを駆け上がった。沈村遥は一夜にしてトップ歌手の仲間入り。さらに注目度の高いバラエティ番組にも呼ばれることになった。
その番組には陸原吉弘も出演していた。二人は表向き何事もないふりをしていたが、安田歌子には分かった。彼は自分の彼氏だ。沈村遥を見る目に、どう考えても裏がある。
真相を確かめる前に事故が起きた。そして彼が迷いなく沈村遥のほうへ駆け寄る姿を、安田歌子は見た。
そこまで思い出して、安田歌子は思わず深く息を吸う。
沈村家の冷たさは「失望」で済む。けれど陸原吉弘の裏切りは、胸の奥を抉る痛みだった。
……でももう、今の安田歌子は何もかもどうでもいい。
鼻で笑うように言った。
「私のため? それとも沈村遥のため?」
陸原吉弘が目を見開く。「遥ちゃんがどうして出てくるの?」
「遥ちゃん、って。ずいぶん親しそうね。それで関係ないって言うの?」
陸原吉弘は気まずそうに息を詰めた。うっかり口が滑った、と自分を責めている顔。
「君の妹なんだから、俺にとっても妹みたいなものだよ。ついそう呼んだだけ。気にしないで」
その手の言い訳はもう、耳にタコができるほど聞いた。
安田歌子は遮るように切り出す。
「陸原吉弘、別れよう」
「安――」
陸原吉弘の驚いた声が上がった瞬間、安田歌子は氷のように言い放った。
「沈村遥が好きなら、好きにすればいい。私は成就させてあげる。もう二度と連絡しないで。私たち、終わり」
そう言って電話を切った。
残された陸原吉弘は、ただ呆然と立ち尽くす。
どうして安田歌子が、自分と遥ちゃんのことを知っている? 陸原吉弘は、何ひとつ綻びを見せた覚えがない。
新曲の件で……そこまで怒らせたのか?
考えた末、ちゃんとなだめようと決めてかけ直した。だが通話は繋がらない。
SNSにもメッセージを送ったが、表示されたのはブロックの通知。
本気で別れるつもりなのか……?
陸原吉弘の胸に、今まで感じたことのない焦りがじわりと湧いた。
一方その頃、安田歌子は自分のために豪華な夕食を作ろうとしていたところ、元マネージャーから電話が入った。
契約はすでに切れているが、今でも友人としての付き合いは続いている。
「安田歌子、沈村家と何か揉めたの? さっき沈村事務所が発表した。業界全体で君を締め出すって!」
安田歌子はマッシュポテトに生クリームを注ぎながら、何の波風も立たない目で言った。
「……あの人たちらしいね」
「で、どうするつもり?」
「遊んであげるだけ」
そう言いながら、和えたポテトサラダをひと口味見する。満足そうに唇をきゅっと結んだ。
電話を切ると、安田歌子はのんびりサンドイッチを作り、チキンナゲットをいくつか揚げ、パソコンデスクへ運んだ。食べながらブラウザを開く。
インスタにログインするのは久しぶりだ。写真を上げたのも一年前が最後。
ログインした途端、陸原吉弘からのDMがいくつも届いていた。
【安田歌子、怒ってるのは分かる。ちゃんと話そう。もうやめよう?】
【安田歌子、君はいつも聞き分けがいいだろ。今回はどうしてそんなに言うことを聞かないんだ】
【安田歌子、君なら俺をがっかりさせないって信じてる。落ち着いたら電話して】
いつも通り。上から目線で諭すだけで、彼女の側に立って考えようともしない。
しかも陸原吉弘は、安田歌子をフォローしていた。
――予想通り、じきに彼のファンがコメント欄に押し寄せて罵声を浴びせるだろう。
昔もそうだった。二人で食事をしている写真をパパラッチに撮られてネットに出回った時、安田歌子は袋叩きにされた。「無名の小物が、人気俳優に取り入ってのし上がろうとしてる」だの、目を覆うような言葉ばかり。
でも、もう痛くも痒くもない。
今やるべきことがある。――新曲を出すこと。
この曲の影響力は前の人生で思い知った。沈村家に業界で締め出されようが、すべての耳を塞ぐことなんてできない。
投稿が完了すると、安田歌子は「いただきます」とでも言うように、のんびり自分の食事を楽しんだ。
ほどなくして、いいねが増え、称賛のコメントも次々と流れ込む。安田歌子は画面を眺めながら、ふと視線を自分の腕へ落とした。
……時間が、増えてる?
つまり、好かれることで寿命が伸びる……?
安田歌子は黙り込む。
前の人生で彼女がいちばん欲しかったものは「愛された実感」だった。なのに最後は恨みを抱いたまま死んだ。そして今世では、もう愛なんて求めていないのに、愛を得なければ生き延びられない。
前世の怨みが重すぎたから? 今世で得た好意でそれを溶かし、ようやく本当の意味で生まれ変われる……そういうことなのだろうか。
安田歌子は苦く笑う。
愛されるって、どんな味だったっけ。
――今はただ、生きたい。
その頃、沈村家では。
沈村川人はすでに手配を済ませていた。安田歌子とは誰も契約するな。仕事も、露出も、何ひとつ与えるな。
沈村事務所は業界でも名の通った大手エンタメ会社で、社長は沈村家の川人お兄さん――沈村川人。彼が直々に口にしたことに逆らう者は、まずいない。
「片付いた?」
書斎の扉口にもたれ、沈村深が気楽そうに立っている。
「安田歌子って本当に欲が深いよな。うちは十分よくしてやったのに、まだ足りないとか」
沈村川人も失望を滲ませた。
「今回は徹底的に分からせる。俺たちを失ったらどうなるか、身をもってな」
沈村深は自信満々に頷く。
「そのうち泣きついて謝りに来るさ」
「川人お兄さん、深お兄さん」
沈村遥の柔らかな声がして、二人が振り向く。
「フルーツサラダを作ったの。食べて」
沈村遥は、透けるような淡いピンクのレースのネグリジェ姿だった。白い肌が布越しにぼんやり浮かぶ。甘い香水の匂いをまとい、沈村深の肩に寄り添うように歩き、皿を机へ置いた。
そして自然な仕草でフォークを取り、メロンをひと切れ刺すと、沈村川人の口元へ親しげに運ぶ。
「川人お兄さん、これ、すごく甘いよ」
沈村川人は沈村遥を優しい目で見つめる。メロンの香りと彼女の匂いが混ざって鼻腔を満たし、視線がさらに柔らかくなった。
「さすが遥ちゃんだ。気が利く」
安田歌子なんて、比べものにならない。
「川人お兄さん、深お兄さん。お姉さんのことで怒らないで……私たち家族なんだから、こんな小さなことで関係を傷つけたくない」
沈村深は歩み寄り、沈村遥の頭をくしゃりと撫でた。
「ばか。お前は優しすぎるんだよ」
三人が甘い時間を楽しんでいると、沈村川人のスマホが不意に鳴った。
電話の相手は会社の人間だった。
「沈村グループの件です。新曲チャートに突然、一本の曲が上がってきました。たった一時間で再生数が遥様の代表曲を超えています。勢いが異常です」
沈村川人の顔が一気に曇る。
――誰の曲だ。遥の代表曲は、この一年、誰にも抜かれなかったはずなのに。
