001.彼女は五年間行方不明だった
真夏の暑さ。西へ傾く日差しが、あちこちに薄い影を落としている。
陽城は夏の盛りを迎え、空気まで熱く感じられるほどの暑さだった。
陽城警察署――年季の入った門の脇で、黒白のシャツに濃い色のジーンズを穿いた若い少女が、扉にもたれかかっていた。両手はポケットに突っ込み、気だるげに目だけを上げて通りを眺めている。
通行人はまばらだった。
隣には三十代半ばの警官が立ち、外に出てから気をつけるべきことを、諭すように語っている。
だが、少女の整った顔には冷ややかな拒絶が浮かび、誰も寄せつけない雰囲気が漂っていた。彼の言葉は途中で喉に詰まり、続かなかった。
――何を言っても、この子は左の耳から入れて右の耳から抜くだろう。
それでも理解はできた。五年間も売られ、連れ回され、ようやく戻ってきたのだ。見慣れたはずの街が、もう知らない街に変わっている。拒みたくもなる。
しかも、聞けば家族はろくに探していなかったらしい。
警官は小さく息を吐き、言った。
「外に出たら、もう人を殴るなよ。今回は運がよかった。容疑者のDNA照合のついでに、君の両親が昔登録してた遺伝子情報に引っかかった」
「親御さんには連絡してある。もうすぐ迎えが来るはずだ」
言い終えた瞬間、かすかな嗤い声が一つ。
ほんの一瞬で消えた。
聞き間違いかと思い、警官は少女を見る。
少女は目を伏せ、睫毛の影に感情をしまい込んでいた。何を考えているのか、まるで読めない。
だが、纏う気配だけは異様に強い。鋭い棘のように人を刺し、警官は息が詰まる。
五年ぶりに家族と再会するというのに、表情は一切変わらない。まるで当事者が彼女ではないかのようだった。
警官はそれ以上言葉を探せず、ただ乾いた視線を向ける。
しばらくして、その圧に耐えきれなくなり、目を逸らした。黙って少女と一緒に待つしかない。
時間だけが過ぎていく。
通りからはますます人影が消え、夕日は遠くの山並みの向こうへ沈んでいった。空には夕暮れの名残がわずかに残るだけだった。
時間だけが過ぎていくのに、誰も迎えに来ない。
警官は気まずさに胃が痛くなる。さっきまで「きっと感激して飛んでくる」と言ったばかりだ。
だが数時間経っても姿はない。焦りの欠片すら見えない。
――この子が、どれほど孤独だったか。
同情が胸に溜まる。
やがて、通りの端に一台の高級車が現れ、ゆっくりこちらへ滑ってきた。
警官は思わず声を弾ませる。
「ほら、来た! きっと君の家族だ!」
少女の喉から、淡い返事が漏れる。
「……うん」
車はほどなく止まり、ドアが開く。
降りてきたのはスーツ姿の若い男だった。眼鏡をかけ、物腰は丁寧で、いかにも有能そうな秘書然とした雰囲気。
その瞬間、警官は言葉を失った。
五年ぶりに戻った娘を、両親が迎えに来ない。代わりに別の男を寄越す――。
男は警官に礼儀正しく挨拶し、続けて少女へ向き直る。
「失礼いたします。石原家のご令嬢、石原絵梨花様でいらっしゃいますか」
その声に、石原絵梨花はようやく顔を上げた。
端正で整った小さな顔。乱れた前髪の下の瞳は淡く、静かで、黒い瞳孔の奥に凍てつくような鋭さが宿っている。
無表情のまま男を一瞥し、頷いた。
男は一瞬たじろいだ。石原絵梨花の目に、確かに冷えたものが走った気がしたのだ。だが消えるのが早すぎて、見間違いかと疑うほどだった。
男は気を取り直し、微笑む。
「絵梨花様、はじめまして。石原社長が急な会議で手が離せず、先に私が迎えに参りました。新山とお呼びください」
それから警官と書類の引き継ぎを行い、最後に石原絵梨花へ手を差し向けた。
「では、参りましょう」
石原絵梨花は彼を見もしない。小さく顎を引き、歩き出す。
車の前に来ると後部座席のドアを開け、ゆっくりと腰を下ろした。
新山は思わず、彼女の背をもう一度見た。
――想像していた“お嬢様”とは、あまりにも違う。
警官は去っていく車を見送り、ぽつりと呟いた。
「どこの家にも、難しい事情ってやつがあるもんだな……」
……
車は幹線道路を滑るように走る。
新山はバックミラー越しに後部座席を窺った。石原絵梨花は窓の外を見つめ、表情一つ動かさない。
逡巡の末、新山は口を開いた。
「絵梨花様、どうかお気になさらず。石原社長は本当にお忙しくて……七緒様は補習で、奥様はそのお迎えに……」
石原絵梨花は外を見たまま、返事をしない。
しばらくして視線を引き戻し、目を閉じた。まるで「休む」と決めたらそれで終わり、とでも言うように。
一時間後。
車は別荘の前で止まった。新山が急いで降り、ドアを開ける。
「絵梨花様、こちらが石原家でございます」
石原絵梨花は車を降り、顔を上げて邸宅を見た。
その瞳に、ようやく僅かな揺らぎが生まれる。
――当然だ。ここが石原家であることくらい、忘れるはずがない。
彼女は五年前、失踪した。
十三歳のあの日、人攫いに連れていかれたのは、この別荘の門の前。ひとりで待っていた時だった。
十八歳で戻ってきた今も、彼女は同じ場所にひとりで立っている。迎える家族は、いない。
