002.私の部屋はどこだ
石原絵梨花は口元に嘲るような弧を浮かべ、新山が何か言い出す前に、さっさと中へ足を踏み入れた。
新山は一瞬きょとんとし、彼女に付き添って入ろうとしたが――路肩に停めた車が目に入り、先に車を駐車場へ入れることにした。
そもそも石原家は、昔から今のように裕福だったわけではない。
石原絵梨花の父・石原幸雄は若い頃、金も財産もない貧しい男だった。時代の波に乗って一旗揚げようとしたものの商才に恵まれず、騙されては全財産を失う――そんなことを何度も繰り返した。
だがある時、思いがけない大きな機会を掴む。投資を受け、誰かの助言を得て、ようやく道が開けた。今の地位にまで上り詰めたのも、そこから始まった。
その「思いがけない機会」が何だったのか、外の人間が知る由はない。
それでも、何も持たなかった男が莫大な資産を築いた話は、業界では今も語り草だった。
絵梨花の記憶にも、幼い頃に両親と妹と古びたアパートに住んでいた光景がある。数年後にこの別荘へ移ったが、住んだのはほんのわずかで――すぐに攫われた。
石原家は貧乏に慣れてしまっているせいか、今も暮らしぶりは驚くほど質素だ。広い別荘にいるのは、定期清掃の業者のほか、料理人が一人、使用人が二人。家の切り盛りは母の石原聡美が担っている。
だから絵梨花が門をくぐっても、庭はしんと静まり返っていた。
玄関へ近づき、扉を押した瞬間に気づく。――鍵がかかっていない。半開きだ。中から笑い声が漏れてくる。
絵梨花は目を細め、そのまま扉を押し開けた。
リビングには、身なりの良い女がいた。化粧は隙がなく、笑みも声も華やかで、使用人二人に向かって言う。
「七緒はますます優秀になったわね。塾の先生も、もう教えることがないって言ってたのよ」
使用人たちは口々に褒めそやした。
「ええ。七緒様は陽城でも名の知れたお嬢様ですもの。並ぶ方なんて滅多にいません!」
「そうそう! 七緒様は小さい頃からずっと優秀で、旦那様の宝物ですから!」
女の隣には、愛らしく整った顔立ちの少女が座っていた。大人しい笑みを浮かべ、上品に相槌を打つ。褒められると、少し照れたように小声で言う。
「お母さん、さすがに言いすぎよ。そんなにすごくないって」
石原聡美は朗らかに笑った。
「七緒、あなたは私の娘よ。誰よりも優秀なのは当然。お母さんの誇りだわ」
石原七緒は柔らかく笑う。
「お父さんが帰ってきたらまた話して。私、もう一つ習い事を増やしたいの。別のことも学びたくて」
「いいわ、いいわ!」
聡美は嬉しそうに即答し、話題はまた七緒を中心に回り続ける。
そこへ、玄関から驚いた声が飛んだ。
「絵梨花様? どうしてこちらに……中へお入りにならないんですか」
リビングの空気が、ぴたりと止まった。
全員が一斉に玄関を見る。
そこに立っていたのは、色褪せた服を着た少女。冷えた無表情。黒い瞳が、まっすぐにこちらを射抜いてくる。
石原聡美の顔から笑顔が消え、その場に凍りついた。
絵梨花の横に新山が現れ、困惑したような顔をする。
その時になって、聡美は思い出した。昨夜、夫が言っていたのだ。――長女の石原絵梨花が見つかった、と。
聡美の笑みが引きつる。
使用人たちは互いに顔を見合わせ、聡美と戸惑う七緒、そして突然現れた絵梨花を交互に見た。
新山は状況を察し、慌てて挨拶する。
「奥様、七緒様。こちらが絵梨花様です。社長は重要な会議中でして、先に私がお送りいたしました」
リビングは針が落ちる音すら聞こえそうな静けさに沈む。
最初に動いたのは七緒だった。
勢いよく立ち上がり、目を輝かせる。
「お姉ちゃん? 本当に……? よかった、帰ってきたんだね!」
そして使用人に指示を飛ばす。
「三山さん、鈴木さん、お姉ちゃんにお水を持ってきて」
鈴木さんが返事をし、好奇心を隠せないままキッチンへ向かった。
聡美もようやく笑顔を作る。
「……絵梨花なのね。帰ってきてくれてよかったわ。さ、座って」
絵梨花は彼女たちを一瞥し、歩み寄る。
七緒が差し出した手をあっさり避け、革張りのソファに腰を下ろした。脚を組み、腕を胸の前で組む。
新山も、この場に長居すべきではないと悟ったのだろう。聡美に一言告げ、引き上げていった。
鈴木さんがコップを絵梨花の前に置き、三山さんと並んで、戻ってきた「お嬢様」を興味深げに見つめる。
彼女たちが石原家に来た頃、長女はすでに失踪していた。だが旦那様も奥様も探している様子はほとんどなかった。噂だけだと思っていたのだ。
聡美は気まずそうに座り直し、しばらく言葉を探してから口を開いた。
「絵梨花……ごめんなさいね。今日はちょっと忙しくて。お父さんからは、昨日聞いてたの」
それを聞き、七緒はようやく腑に落ちた。
昨夜の夕食時、幸雄が確かに言っていた。警察署にいる、事件絡みで偶然見つかった――と。だが七緒は深く考えなかった。聞き間違いかもしれない、と。
石原家の娘はずっと自分一人。そういう生活に慣れていた。記憶の中の「姉」など、ほとんど薄れている。
――人攫いに売られ、山奥へ行ったのに、それでも戻ってきた。
七緒は面白がるように絵梨花を眺め、意味深に笑った。
「お姉ちゃん、ごめんね。お母さん、今日は私のことでバタバタしてて……忘れちゃってたの。私からも謝る」
絵梨花はゆるく目を上げ、礼儀正しい七緒を眺める。
そして淡々と言った。
「うん。忘れるくらい、忙しいんだね」
聡美の顔色が青くなり、乾いた笑いで誤魔化す。
「絵梨花ったら……お母さんだって心配してたのよ。昨日、帰ってくるって聞いて、嬉しくて眠れなかったくらい」
「で、今日はその“嬉しさ”を消化したら、他人の用事?」
絵梨花が鼻で笑う。
聡美は言葉を失った。
どう接すればいいのか分からない。
だが絵梨花も世間話をする気はないらしく、少し座っただけで立ち上がる。
「私の部屋は?」
その一言に、聡美と七緒が同時に固まった。
二人の顔に、はっきりとした気まずさが浮かぶ。
絵梨花は二人を見もせず、階段へ向かった。
慌てて聡美と七緒が追いかける。
聡美が取り繕う。
「絵梨花、あなたの部屋は一階よ。三山さんが片づけてる途中なの。少し待ってくれる?」
絵梨花が足を止める。
聡美と七緒も止まった。
絵梨花は振り返り、上から見下ろすように七緒を睨む。目を細め、低い声で言った。
「私の部屋は二階の一番奥。……私がいなくなったから、物置にでもした?」
物置なわけがない。
聡美は反射的に否定しかけたが、理性がそれを押し殺した。
あの部屋は石原家の中でも最も条件が良く、内装も設備も申し分なく、広さもほかの部屋とは比べものにならなかった。当時、ほかの部屋より何倍もの費用と労力を注ぎ込んで整えたのだ。そんな部屋を物置にするはずがない。
――ただし。
七緒が、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。お姉ちゃんがいなくなってから、お父さんが……私が元の部屋だと落ち着かないだろうって。だから、あの部屋に移したの」
