005. 確認した目は、彼が知らない人だ
翌日。石原絵梨花が目を覚ましたとき、時計はすでに9時半を回っていた。
瞳の奥に薄い靄がかかり、目の下にはうっすらとした隈。熱を帯びた赤みが残っている。
昨夜も――夢を見た。
いつもの場所。背後には空を覆うほどの血のような赤が広がり、耳に響くのは絶え間ない叫び声。彼女はひとり、燃え盛る山と火の海から歩き出し、数え切れないほどの骸を踏み越えて、夜明け前の暗闇へと向かう。
この夢を、石原絵梨花は五年、途切れ途切れに見続けている。
目覚めるたび、胸の奥にざらついた苛立ちが残った。
壁際に転がるスマホへ視線をやる。本体には浅い亀裂が何本か走っている。
石原絵梨花は指で眉間をつまみ、ゆっくり息を吐いた。
まず浴室で湯に浸かり、荒れた気分を鎮める。次に階下のキッチンへ降り、食べ物を探した。
冷蔵庫の中には、驚くほどたくさんの食材が入っていた。肉も野菜も、調味料も、果物も。何でも揃っている。
なのに――手軽に食べられるものがない。パンも、カップ麺も、何ひとつ。
石原絵梨花はどちらかと言えば面倒くさがりだ。出前で済ませるか、カップ麺で済ませる方が楽。自分で火を使う気はさらさらない。
けれど。
食材がぎっしり詰まった冷蔵庫を前にしても、果物以外はそのまま食べられない。
無表情のまま深く息を吸い、リンゴを一つ取り出して冷蔵庫の扉を閉める。踵を返し、二階へ戻った。
寝室の隅でスマホを拾い上げ、淡々と修理を始める。しばらくしてようやく画面が点いた。
ただし、画面には三本の亀裂が走っていた。画面を横切っていて、見るからにみすぼらしい。
出前アプリを開き、注文しようとした瞬間――着信音が鳴り響いた。
注文の手が止まる。
石原絵梨花の表情が冷える。
リンゴをかじり、しばらく鳴らしっぱなしにした。急かすような音が続くのを無視して、最後のひと口まで食べ切る。
紙ナプキンで指を拭いてから、ようやく通話ボタンを押した。
「絵梨花。陽城に戻ったのか?」
受話口から飛び込んできたのは、切迫した声。年季の入った声色なのに、慈しみだけは隠しようがない。
「うん」
「じゃあ……三高に通う気になったのか!?」
返事を待たず、畳みかける。
「今すぐ校長に電話する。入学枠を取らせるから、お前はそのまま行けばいい。どうだ?」
相手は不安げに沈黙を待っている。
陽城第三高等学校は名門だ。百年の歴史を持ち、進学率は市内トップ。名門大学、一流大学へ数多く送り出してきた。特別選抜クラスでは、半数以上が国家最高峰の大学へ進んだ年もある。
教師陣も生徒の質も、後ろ盾も、文句のつけようがない。
石原絵梨花は気だるげに言った。
「……また今度」
承諾ではない。だが拒絶でもない。
電話の向こうが一気に浮き立つのが分かった。
この子は、即座に断らないときは余地がある――相手はそれを知っている。
「よし! すぐ手配する。すぐだ!」
そう言い切ると、返事を待たずに通話が切れた。
石原絵梨花は暗くなった画面をしばらく見つめ、やがて何事もなかったように視線を逸らす。出前の注文を入れた。
……が。
注文を終えた指が、画面の上で止まった。
鼻先をくすぐる、ふわりとした香り。どこか甘く、腹の底を刺激する匂いが、薄く漂ってくる。
食欲を、ゆっくり撫でるみたいに。
石原絵梨花はしばらく座っていた。
数秒後、諦めたようにスマホを置き、ベランダへ出る。香りの流れてくる方角を細めた目で確かめると、手すりに手をつき――迷いなく身を翻した。
……
隣家、水園31号。
高木政宗は一階のソファに沈み込み、リモコンを握ったまま脚を組んで、退屈そうにテレビを眺めていた。画面では今どきのドラマが流れている。
本当は松岡友希も誘うつもりだった。
だが、淡い一瞥で黙らされた。あれに逆らって腕を引っ張る度胸など、あるはずがない。
陽城に来てからというもの、松岡友希が「遊ぶ」姿を高木政宗は一度も見ていない。外出しても、あのジジイどもが持ち込む厄介事を片づけるだけだ。
――松岡様、ここにいるのは逃げてるだけなんじゃないか?
そんなことを考えていると、キッチンからたまらなくいい匂いが漂ってきた。
(この匂いの前で、松岡様から飯を奪える確率……ゼロだな)
立ち上がり、何気なく玄関の方へ目をやる。
そこに、細身で背の高い女子が立っていた。
高木政宗は数歩近づき――止まった。
ゆっくり首を回し、彼女の目を見る。
見たことがない。
「……は? 誰だお前。どうやって入った!?」
最新の顔認証スマートロック。鍵穴すらない。事前に登録されていなければ入れるはずがない。
石原絵梨花は彼を一瞥し、淡々と言った。
「腹減った」
「は?」
「食べに来た」
「はぁ!?」
「金は払う」
高木政宗は完全に理解が追いつかない。
そのとき、少し離れた場所から低い笑い声がした。人を引きつけるような、楽しげな笑い声。
石原絵梨花が視線を向けると、キッチンの入口に昨日の男が立っていた。
細長い目元に、どこか柔らかな色が差している。
松岡友希は意味ありげな笑みを浮かべたまま、ゆっくり問う。
「腹が減った?」
石原絵梨花は一拍置いて頷く。
「食べたい?」
香りを確かめるように小さく息を吸い、迷いなく頷いた。
松岡友希は口元を吊り上げ、頷く。
「先に席へ」
そう言い残し、キッチンへ戻っていった。
高木政宗は固まった。
――は?
松岡様、今なんて言った?
昨日、俺が食いたいって言ったときは蹴っただろ……!
