008.私が自分で行く
数日後、陽城第三高校は新学期を迎えた。
石原家で何日か過ごした石原絵梨花は、全身に低気圧を纏っていた。見ているだけで背筋が冷える。ますます触れづらい。
石原幸雄と石原聡美は、それを単に「機嫌が悪い」と受け取っていた。
朝食の席。石原幸雄は言いにくそうに切り出す。
「絵梨花、その……父さん、三高の校長に当たってみたんだが……」
言葉を探して、いったん息を飲む。顔色も冴えない。
「どうやら三高とは縁がなかった。だから別の学校を手配した。十九高だ。先生も揃ってるし、教育の質も高い。十九高で……どうだ?」
できるだけ柔らかく言ったつもりでも、胸の奥に溜まった苛立ちは消えなかった。
実際、石原幸雄は自分で三高へ出向いたのだ。
石原グループ社長が、陽城第三高校の校長に会いに行く。どう考えても「下手に出る」ことになる。人に任せて失敗されるのが嫌で、仕方なく自分が動いた。
ところが校長には会えず、出てきたのは教務主任。
しかも「村の出で、まともに学校に通っていないかもしれない」と聞いた瞬間、露骨に拒まれた。
反論できない自分が、なおさら腹立たしい。
その空気を和らげるように、石原七緒がふわりと笑う。
「お姉ちゃん、落ち込まないで。十九高もいい学校だよ。環境もいいって聞くし、みんな仲もいいみたい」
石原絵梨花は箸で肉まんをひとつ掴み、目の前の皿へ置いた。
気だるげに顔を上げ、石原七緒を一瞥する。機嫌が悪いのか、目の温度がひどく冷たい。
「十九高?」
石原七緒は小さく頷く。
石原聡美が言った。
「十九高に入れるだけでも上出来よ」
石原絵梨花は鼻で笑う。
「いらない。自分で行く」
そう言い捨てて、立ち上がった。
「――っ」
石原聡美が、ぱんっと箸を叩きつける。眉がきつく寄り、声だけが重くなる。
「どこへ行くのよ! 何年も学校に行ってないのに、受け入れてくれるだけでもありがたいでしょ。十九高が嫌だって?」
石原聡美の中では、十九高が絵梨花を取るのは石原家の顔があるからだ。三高には及ばないにせよ、十九高の方がよほどマシ――そう思っている。学校の雰囲気が自由で、生徒が遊びがちだろうと、絵梨花よりひどいはずがない、と。
石原幸雄が咳払いをして、石原聡美を制した。
だが、それ以上は何も言わない。
石原絵梨花は淡々と鞄を取り、片手をポケットに突っ込み、食卓を回り込んで出ていく。
品の欠片もない。挑発だけが眩しい。
石原聡美は、所作の端正な石原七緒を見て、怒りで目の前が暗くなりそうだった。
「見なさいよ! これがあなたの“いい娘”よ!」
石原幸雄の顔が沈む。
眉間を押さえ、石原七緒に言った。
「先に運転手に送らせろ」
石原七緒は柔らかく笑う。
「うん。お父さんも、お姉ちゃんに怒りすぎないでね」
……
石原絵梨花は水園32号へ、のろのろ歩いた。
朝食も、まともに口に入ったのはお粥を半分ほど。
石原家の人間と向き合うと、食欲が落ちる。
食べられないと機嫌が悪くなる。目に入るもの全部、殴りたくなる。
朝の霧は薄く、道端には細かな水滴が残っている。
淡い日差しを浴びながら、絵梨花の表情はますます冷めたものになっていく。
通りにはまだ人が少ない。小走りの人がすれ違いざま、思わず二度見していく。
しばらくして、背後に足音。
安定していて、軽い。
絵梨花は足を緩め、癖で帽子のつばを下げて顔を隠した。
だが足音は消えない。むしろわざと聞かせるように近づいてくる。
同時に、甘い匂い。
腹を刺激する、あの香り。
絵梨花はついに立ち止まった。足音も、ぴたりと止まる。
振り返ると、先に目に入ったのは、品のある眼差し。
相手は彼女より背が高く、絵梨花は少し顎を上げた。
朝日が男の輪郭を包み、柔らかな金色の膜を纏わせる。昨日の圧が薄れ、どこか穏やかに見えた。
絵梨花の視線は、男の手に提げられた二つの袋へ落ちる。
香りの元だ。
松岡友希は、彼女の視線を追って笑った。
「食べたい?」
絵梨花は首を振るつもりだった。
だが腹が、間抜けな音を立てた。
「……」
松岡友希が低く笑う。磁力のある声が、妙に耳に残る。
「どうやら、お嬢さんはちゃんと食べられてないらしい」
絵梨花は無言で顔を背けた。
松岡友希は淡々と言う。
「一つ多く買った。やる」
絵梨花の足が止まる。
もう一度彼を見て、目を細めた。考えるような間。
やがて、ぽつり。
「料理人だった?」
絵梨花の舌はうるさい。一度で「合格」を出せる腕は、そう多くない。
松岡友希は眉をわずかに上げ、口元を吊り上げる。
「そう思ってくれて構わない」
……
別荘では、高木政宗が首を長くして待っていた。腹が減りすぎて幻覚が出そうだ。
昨日の午後から立て込みっぱなしで、食事を忘れていた。
それでも松岡様が気を利かせてくれるなど期待していない――はずだった。
今朝、松岡様は言ったのだ。
朝のトレーニングに出るついでに、朝飯を買ってくる、と。
高木政宗は大喜びし、ひたすら待った。
ようやく戻ってきた松岡友希の手には――袋が一つ。
高木政宗は固まった。
「……」
目を擦って見直しても、一つ。
「松岡様、俺の朝飯は?」
まさか分け合う気か。
そんなこと、命がいくつあってもできない。
松岡友希は涼しい顔で言う。
「忘れた」
高木政宗の口元が引きつった。
「忘れたのに、なんでそんな機嫌いいんですか」
全身から「気分がいい」が滲み出ている。むしろ怖い。
高木政宗は言いかけた。
「俺は――」
松岡友希がちらりと見る。
高木政宗は即座に言葉を飲み込み、恨みがましく視線で訴えた。
松岡友希はソファに腰を下ろし、袋をテーブルへ置く。脚を組み、背を預ける。
「やる」
高木政宗は飛びついて袋を開け――そして、また固まった。
「……松岡様。これ、昨夜煮てたスープじゃないですか。朝、持って出て、袋だけ替えて戻しただけでしょう」
いや、まさか。
スープを提げて朝のトレーニング?
俺を殺す気か。
高木政宗は背筋を伸ばし、慌てて弁明した。
「最近、俺、何もやらかしてないですよ! 言われたこと全部やってます!」
そのまま報告に切り替える。
「西村雅哉の方が、あの場所の情報を掴みました。しかも道上で、誰かが情報を流してる。西村雅哉は松岡爺さんに接触して、松岡家の人間にも一緒に来てもらいたいらしいんですが……妙なんです」
「松岡家が表舞台から退いていても、完全に足跡が消えるわけじゃない。調べれば多少は掴めるはずなのに……」
高木政宗は眉を寄せる。
「まるで誰かが意図的に松岡家の痕跡を消してるみたいで。西村雅哉の連中は連絡手段を一切掴めず、逆に人を折ってる」
松岡友希はこめかみを押さえた。
「Xが動いた?」
高木政宗の表情が引き締まる。
