第1章
耳元でシャンパングラスが触れ合う軽やかな音が響き、鼻腔を名高い香水の入り交じった香りがくすぐる。私は白杖を握りしめ、背中に添えられた平床勝人の腕の感触を確かめながら歩を進めた。
「段差があるよ、真菜。気をつけて」
勝人の声は、どこまでも優しく気遣いに満ちている。
私は小さく頷き、顔には完璧な角度で微笑みを浮かべた。
東京帝国ホテルのチャリティーガラは、上流階級にとって一大イベントだ。今宵は勝人が視力を回復してから初めて、私を伴って出席する公の場だった。
「平床さん、ご回復おめでとうございます!」
「平床さん、御社の最近のプロジェクトは素晴らしいですね!」
「松本さん、貴女は本当に幸せ者だ。これほど献身的な彼氏がいらっしゃるのですから」
会場を進むにつれ、挨拶の声が絶え間なくかかる。
勝人が笑みを浮かべているのが気配でわかる。彼は今、この注目を一身に浴びる感覚に酔いしれているのだ。
対して私は、彼の腕に抱えられた、特注のサングラスをかけた「目の不自由な恋人」という役どころだ。
「勝人、人が多すぎて……少し落ち着かないわ」
私は小声で告げた。
「心配ないよ、僕がついている」
彼の声には、私にしか気づかないほどの微かな苛立ちが混じっていた。
「もう少しの辛抱だ。チャリティーオークションがもうすぐ始まるからね」
「さあ、いよいよ今宵の目玉商品の登場です! フランスの宝飾職人が手掛けた『スターライト』シリーズ、ダイヤモンドネックレス! 開始価格は五百万円から!」
オークショニアの声が現実に引き戻す。周囲からは感嘆の吐息が漏れた。
「六百万!」
と誰かが叫ぶ。
「八百万!」
別の声がすぐに続く。
「千五百万」
勝人の声が唐突に私の横で響いた。まるでカフェでコーヒーでも注文するかのような、平然とした口調で。
会場が一瞬静まり返り、次いで割れんばかりの拍手が巻き起こる。
「千五百万、一度! 二度! 三度! 落札! 平床様、おめでとうございます!」
私は驚いたふりをして勝人の方を向いた。
「そんな……私のために、こんな大金を……」
「これは君へのプレゼントだよ、真菜」
彼の声はとろけるように甘い。
「君にはそれだけの価値がある」
周囲からは即座に称賛の声が上がった。
「平床さんは本当に情が深い方だ!」
「自分の目が治っても、目の見えない彼女をこれほど大切にするなんて!」
「これこそ真実の愛ですね!」
私は微笑んで会釈するが、胸の奥には冷たいものが澱んでいた。
言葉の端々に滲む憐れみと、品定めするような視線が息苦しい。
だが勝人は私の感情になど気づきもしない。それどころか、道徳的な優越感という美名に酔いしれているようだ。
「数人の友人に挨拶をしてくるよ。ここで少し待っていてくれるかい?」
勝人が耳元で囁く。
「ええ、わかったわ」
私は頷いた。
彼の足音が遠ざかっていく。私はその場に立ち尽くし、周囲の人々が投げてくる視線——憐憫、好奇、値踏み——を肌で感じていた。
給仕がシャンパンを持って通りかかり、手助けが必要かと尋ねてきたが、私は礼儀正しく首を横に振った。
十分が経過しても、勝人は戻らない。
私はお手洗いへ行くことにした。
白杖で床を探りながら、ゆっくりとお手洗いの方向へ歩を進める。
角を曲がったところで、勝人の声が耳に入った。彼は数人の男性と談笑しているようだ。その声には、私の前では決してみせない軽薄な自信が漲っていた。
「……あのネックレスは確かに値が張ったが、投資する価値はある」
見知らぬ男の声がする。
「ネックレスより、俺はあの松本さんとかいう彼女との関係の方が気になるな」
別の男が尋ねた。
「どれくらい付き合ってるんだ?」
「一年ちょっと、かな」
勝人は気のない様子で答える。
「いやはや殊勝なことだ。目が治った今でも、あんな目の見えない女の面倒を見ているとはね」
三人目の男の声には、どこか卑俗なからかいの色があった。
「で、正直なところ、長く続けるつもりはあるのか?」
私は息を呑み、白杖を強く握りしめた。
「もちろん、結婚するつもりだよ」
勝人のその答えに心臓が跳ねたが、続く言葉が冷水のように浴びせられた。
「何しろ、僕が失明していた時に愛し合い、尽くしてくれたことは周知の事実だからね。……ただ、もし彼女が本当に僕を愛しているなら、空気を読んで自分から消えてくれるべきだとも思うよ。だってそうだろ? 今の僕の地位や付き合う人間関係を考えれば……」
声のトーンは落ちたが、そこに含まれる侮蔑と嫌悪は鋭い棘となって私の心臓を貫いた。
彼は、目が治った自分に、私はもう釣り合わないと思っているのだ。
これ以上聞いていられず、私は音を立てずに後ずさりした。
彼にとって私は、「空気を読んで消えるべき」お荷物でしかない。
あの優しさも、気遣いも、すべては外聞を取り繕うための茶番だったのだ。
バンケットルームに戻ると、勝人はすでに私を探していた。
落札したばかりのダイヤモンドネックレスを手に、完璧な笑顔を貼り付けて歩み寄ってくる。
「真菜、おいで。着けてあげるよ」
衆人環視の中、彼は恭しく、その高価なネックレスを私の首にかけた。
肌に触れるダイヤモンドの冷たさは、彼の虚飾に満ちた愛情のように私を刺す。
「ありがとう」
自分の声が恐ろしいほど冷静なのがわかった。
指先でネックレスに触れる。確かに、高価な品なのだろう。
だが今の私には、それが煌びやかな枷にしか見えない。私が嘘の中に生きていることを証明する証拠品にしか。
その夜、帰宅した私は洗面所の鏡の前でサングラスを外した。
平床の声は相変わらず優しかった。けれど、その言葉を吐く時の眼差しや表情は、以前とはまるで別物だった。
人を愛する時の表情というのは、あんなものではない。
少なくとも、私にはわかる。
なぜなら、最初から最後まで、私は失明などしていなかったのだから。
私は知っているのだ。彼がかつて、本当に私を愛していた時の顔を。
