第1章
吉崎家の別荘。
鈴村紀子は箸で最後の牛肉をつまむと、吉崎由紀の茶碗へそっと移した。眼差しには甘やかしきった慈愛が滲んでいる。
「由紀、もっと食べなさい。このところデザイン画でずっと頑張ってたでしょう? 随分痩せたじゃない……ママ、見てるだけで胸が痛いのよ」
デザイン画。
その言葉を聞いた途端、由紀の目元がじわりと赤く染まった。
「ママ……私のデザイン画、見当たらないの……金頂賞の一次審査のために、まる一か月かけて仕上げたのに……うっ、うう……」
一分もしないうちに、由紀は涙をぽろぽろ零し始めた。けれど視線だけは、対面で黙々と食事を続ける吉崎直子へ、ちらり、ちらりと泳ぐ。
紀子の顔色が一瞬で陰った。
「直子! 由紀の原稿、あんたが持っていったんでしょう?!」
主座にいた吉崎広峰も酒杯を置き、半月前にようやく連れ戻した実の娘を、威圧的な眼差しで値踏みする。
色褪せたTシャツ。俯いたまま、席についてから一言もない。
野暮ったい。
表に出せない。
――これが、自分の実の娘だというのか。
手塩にかけて育てた養女の由紀と比べれば、月とすっぽんだった。
「……取ってない」
直子の声は冷えきっていた。温度が一切ない。
顔も上げず、相変わらずのんびりと椀のスープを啜る。
その気だるげな態度が、紀子の神経を完全に逆なでした。
「まだしらばっくれるの?! この家で手癖が悪いのはあんたくらいよ! 由紀の部屋に入ったのだってあんただけ! 田舎育ちの野良娘は目が浅いのよ、良い物を見ると自分のものにしたくなる!」
紀子は怒りで胸が大きく上下する。
最初から連れ戻すべきじゃなかった――。
祖父の臨終の間際に「本当の孫娘を探せ」と迫られなければ、こんな子、この先も認めるつもりはなかったのに。
あの貧乏な土地で勝手に朽ちていればよかった。戻ってきて恥を晒すだけでなく、宝物の由紀まで虐めるなんて。
「ママ、姉さんを責めないで……」
由紀はすすり泣きながら、聞き分けの良い顔で紀子の手を取った。
「田舎では宝飾のデザイン画なんて見たことがなくて……綺麗だから、ちょっと写してみたかっただけかも……返してくれれば、私は気にしないから……」
「写す? あの子が『デザイン』なんて分かるの? 筆だってまともに持てないくせに!」
紀子は鼻で笑い、直子の鼻先を指差した。
「今すぐ跪いて! 由紀に謝りなさい! 原稿を出しなさい! じゃなきゃ今夜は夕食も終わりまで食べさせない!」
広峰も沈んだ声で言い放つ。
「やったことは認めろ。吉崎家は品性のない人間を置けない。直子、由紀に謝れ」
有無を言わせない口調。
この家では、彼が『神』だった。
直子は最後の一口を飲み干すと、紙ナプキンを引き寄せて口元を拭った。まるで宴席にいるかのように、所作だけは妙に上品だ。
それから、顔を上げた。
息をのむほど綺麗な瞳。瞬きのたび、星河が揺れるようだった。
その目に射抜かれ、由紀は胸の奥がざわつき、泣き続けるのも忘れてしまう。
「……本気でそう思ってる? あの紙切れを、私が取ったって」
直子の声は、どこか気怠い掠れを帯びていた。
紙切れ?
由紀は目を見開く。あれは血反吐を吐くように描き上げた作品だ。それが、この田舎者の口から『紙切れ』だなんて。
「その態度はなんだ!」
広峰は怒りで顔を赤くした。
「親に、妹に、それが言葉遣いか? やっぱり連れ戻したのが間違いだった!」
間違い、か。
直子は紅い唇をわずかに持ち上げ、嘲るような弧を描いた。
ちょうどいい。
この愚か者たちの茶番に付き合う気なんて、最初からなかった。
彼女は背中の黒いリュックから一枚の書類を抜き取り、食卓へ放り投げた。
ぱさり、と乾いた音。全員が固まる。
「間違いなら、損切りしたらいい」
直子は椅子に深くもたれ、すらりとした脚を組む。空気が一変した。
「サインして。これからは、もう他人」
広峰が書類を掴み、表題を見た瞬間、瞳孔が縮む。
『親子関係断絶協議書』。
「おまえ……」
手が震え、紙が微かに鳴る。
「脅してるのか?」
紀子は内容を見ても怒るどころか、笑い声を上げた。
「直子、現実を見なさい。吉崎家を出て、あんたが何になるの? 高卒で京市で生きていけると思ってる? そのうち飢えて泣きついてくるわよ!」
彼らにとっては、直子が構ってほしくて『家出ごっこ』をしているだけ。
注目を引きたいのだろう、と。
浅はかだ。
「心配には及ばない」
直子はペンを取り出した。
「サインして」
短い一言なのに、妙な圧があった。
広峰はあの瞳を見て、理由もなく胸騒ぎを覚える。
――連れ戻した時は、こんな……獰猛さは感じなかったはず。
だが結局は田舎娘。何ができる、とも思う。
それに由紀はもうすぐ羽島家と婚約だ。
羽島家は突然現れた『本物の令嬢』である直子を快く思っていない。格が落ちる、と。
ならばこのタイミングで縁を切った方が、羽島家も喜ぶ。
「いいだろう。上等だ!」
広峰は怒り笑いし、ペンを走らせて署名した。
「それがおまえの選んだ道だ! この門を出たら、二度と吉崎家の敷居を跨ぐな! 生きようが死のうが、吉崎家とは一切関係ない!」
紀子も待ってましたとばかりに署名する。
「荷物は全部持って行きなさいよ。ゴミを残すんじゃないわ!」
直子は二つの署名を見て、瞳の奥に薄い嘲りを走らせた。
協議書をしまい、立ち上がる。黒いリュックを片手で掴んで肩に投げる動きは、未練の欠片もない。
「望みどおり」
背筋の通った後ろ姿は、言いようのない傲慢さを帯びていた。
由紀はその背を見送りながら、目の奥に勝ち誇った光を浮かべる。
やっと厄介者を追い出せた。これから吉崎家のすべては、自分のもの――。
その高揚に耐えきれず、由紀は立ち上がり、追いかけた。
「直子!」
客間の入口で進路を塞ぐ。
勝者の笑みを貼り付けながら、声だけは相変わらずか弱い。
「本当に行くの? 謝れば、パパもママも許してくれるのに……だって、来月8日は私と喜太郎の婚約パーティーでしょう……」
羽島喜太郎の名を出す声に、これでもかという自慢が混じる。
「喜太郎は羽島家の若様なの。あなた、あんな優秀な人、見たことないでしょ? 残念だわ。あなたが出て行かなければ、パーティーに出て少しは『世界』を見られたのに……」
直子は足を止め、横目だけ寄越した。
その作り物の表情が、ただ滑稽だった。
羽島喜太郎?
振り切れない男。
優秀?
「……身の程を知りな」
直子は紅い唇を動かし、短く吐き捨てる。
由紀の笑みが凍りつく。
「……何ですって?」
「言ってるでしょ」
直子は見下ろすように目を細め、戯れの光を宿した。
「お前ら二人、お似合いのクズカップルだ」
それだけ言うと、由紀の横をすり抜け、別荘の門を大股で出ていった。
「……っ、誰がクズよ!」
由紀は怒りで震えた。
追いかけてきた紀子と広峰も、その台詞を耳にする。
「何様よ! 羽島様をクズ呼ばわりなんて!」
紀子は背中に向かって喚く。
「そんなのが広まったら、吉崎家まで巻き添えよ!」
「行かせろ!」
広峰は顔面蒼白で吐き捨てた。
「吉崎家を出てどこへ行く? 手持ちなんて100元もないだろう。今夜は路上で寝る羽目になる!」
三人は門の前で、落ちぶれる直子を見物するつもりで立ち尽くした。
ここは高級住宅街。タクシーなど捕まらない。
徒歩で出るしかない――はずだった。
しかし。
次の瞬間。
黒塗りの車が、直子の前に静かに滑り込んで停まった。
ロールスロイス。それも特注。
広峰は目を剥いた。金はある。だが所詮成り上がりだ。こんな車、雑誌でしか見たことがない。
「な、何だ……誰の車だ? なんでうちの前に……」
声が震え、無意識に服の皺を正して近づこうとする。
紀子も呆然とした。
「まさか……羽島家の方が来たの?」
由紀の胸は踊った。喜太郎だ。喜太郎しかありえない。自分を迎えに来たに違いない――。
だが扉が開いて降りてきたのは、羽島喜太郎ではなかった。
燕尾服に白手袋の老紳士。
彼は吉崎家の三人を一瞥すらせず、まっすぐ直子の前で軽く腰を折り、恭しく後部座席の扉を開ける。
「お嬢様。ご苦労さまでございました。お帰りになりましょう」
直子は無表情のまま、吉崎家に『安物』と蔑まれた黒いリュックを、老紳士へ投げるように渡した。
それは世界に3つしかない特注品で、金を積んでも手に入らない代物だった。
「……うん。行こう」
車に乗り込む直子は、背後の三人に一瞥もくれない。
ロールスロイスが走り去ったあと、紀子はようやく我に返り、息を詰まらせた。
――夢よね。きっと。
