第4章 お前を娶るのは、復讐のためだ
真田修一の視線が、林田知代の頬に残るくっきりとした赤い痕へ落ちた。
その瞬間、空気がすっと氷点下まで冷え込む。
「誰の許しで、彼女に手を上げた?」
怒声と同時に、真田修一は大股で踏み込み、日向茜を乱暴に突き飛ばした。
不意を突かれた日向茜は、たたらを踏んで数歩よろめき、そのまま腰をテーブルの角へしたたかに打ちつける。
ずきりと走った痛みに、顔からさっと血の気が引いた。
けれど真田修一は、そんな彼女を一瞥すらしない。
まっすぐ林田知代を抱き寄せ、その頬を両手で包み込む。指の腹で、赤く腫れた箇所を壊れ物でも扱うみたいにそっと撫でた。
その張り詰めた心配も、露骨なまでの愛おしさも。
日向茜が一度たりとも向けられたことのないものだった。
「痛むか?」
林田知代は腫れた頬を押さえたまま、たちまち目に涙を滲ませた。
悔しさをこらえるみたいに首を横へ振り、しゃくり上げる声で言う。
「修一、そんな言い方しないで……茜さんだって、あなたのことが好きすぎて、わたしに嫉妬しただけなの」
「さっきの平手くらい、平気よ。本当に痛くないから……それで茜さんの気が済むなら、わたし、少しくらい我慢できるもの」
鼻をすんと鳴らし、それから怯えたように床の上の日向茜へ目を向ける。
その声音は柔らかいのに、言葉の刃だけが深く食い込んだ。
「茜さん。もしまだ苦しいなら、もう一度叩いてくれてもいいの」
「だからお願い……おばさんの病気を持ち出して、修一を脅すのはもうやめてくれない?」
いかにも聞き分けのいいその言葉が、真田修一の怒りへさらに油を注いだ。
彼は痛ましげに林田知代の髪を撫で、次に日向茜を見下ろす。
その目に宿る嫌悪は、もう隠しようもなく剥き出しだった。
その視線が、日向茜の胸をずぶりと刺し貫く。
それでも――いや、だからこそ。
煮えたぎる憎しみが、これまでにない力を彼女へ押し込んだ。
「叩いたら何だっていうの?」
日向茜は唇を噛みしめ、震える身体で睨み返す。
「真田修一、あんたの目には、こいつの頬の傷しか映らないの?」
「うちの母さんがICUで死にかけてるのは見えないわけ?!」
声が一気に鋭く跳ね上がる。
一語一語が血と涙をまとい、喉の奥から引き裂くように迸った。
「心臓……代わりはいくらでも探せたはずでしょ!」
「なんで母さんのを奪うの! あんた、いったい何がしたいのよ!」
息が詰まる。
それでも止まらない。
「どうして?!」
「息子を助ける方法は、ほかにもあったはずじゃない!」
「なんで母さんのたった一つの望みを奪うの!」
「なんで私たちをここまで追い詰めるのよ!」
真田修一は、ふっと短く嗤った。
その笑いに滲む侮蔑は濃すぎて、欠片も溶けない。
「追い詰める?」
「お前が、か」
冷え切った眼差しのまま、吐き捨てる。
「知代はこんな目に遭わされても、まだお前をかばってる」
「日向茜。同じ女のくせに、どうしてそこまで陰険で、話も通じないんだ」
さらに一歩、言葉が胸をえぐる。
「知代みたいに優しくもなれないのか?」
「お前の心は石でできてるのかよ」
「人を不快にさせること以外に、何ができる」
その瞬間、胃がぎゅうっと捩じ切れるみたいに縮み上がった。
鋭い痛みが全身を貫き、視界の端からすうっと黒く染まっていく。
膝から力が抜け、日向茜はその場に崩れ落ちた。
薄い服越しに伝わる床の冷たさ。
けれど胸の内側に広がる寒さは、その比ではない。
彼女は身を丸め、苦しげに腹を押さえる。
額には細かな冷や汗がびっしり滲み、息を吸うたび、焼けた刃を差し込まれるみたいに痛んだ。
だが、その惨めな姿を前にしても、真田修一の表情は一分たりとも揺れない。
むしろ嫌悪は、さらに色濃く沈んでいく。
「日向茜、いい加減うんざりだ」
「そうやって同情を買おうとする芝居、いつまで続けるつもりだ?」
冷たい声が落ちる。
「毎回同じ手を使えば、俺が信じるとでも思ってるのか」
言い終えると、もう一度見ることさえ惜しいというように視線を切った。
そのまま腰をかがめ、今にも泣き崩れそうな林田知代を、ひどく大切そうな手つきで抱き上げる。
まるで宝物でも扱うように。
彼は腕の中の女だけを見つめたまま、長い脚で歩き出した。
床にうずくまる日向茜のすぐ脇を、目もくれず通り過ぎていく。
革靴が床を打つ、重く鈍い足音。
こつ、こつ、と鼓膜を震わせるその響きが、日向茜に残っていた最後の意地まで砕いていく。
――違う。
終わらせて、たまるもんか。
まだ、何ひとつ本当のことを聞いていない。
まだ、答えをもらっていない。
どこから湧いたのかもわからない力で、日向茜は歯を食いしばり、床へ手をついて立ち上がった。
ふらつく足で、よろよろと二人の背を追う。
「真田修一! 待ちなさい!」
どうにか入口まで追いついた、その途端。
胃の奥がぐらりと大きく波打った。
こみ上げてきたのは、鉄みたいに生ぬるい甘さ。
堪えきれない。
「――っ、ぶ……!」
鮮血が口から噴き出し、冷たい白い床にどっと散った。
ぱっと咲いた赤が、あまりにも鮮烈で、目に痛い。
世界がぐらりと傾ぐ。
視界は揺れ、足元は崩れ、立っている感覚すら遠のいていく。
日向茜は門枠へしがみつき、最後の力を振り絞って倒れるのだけは食い止めた。
背後の異変に、真田修一の足がぴたりと止まる。
わずかに肩が強張り、反射的に振り返りかけた――そのとき。
「っ……修一……」
腕の中の林田知代が、苦しげな吐息を漏らす。
彼の胸元へ顔を深く埋め、弱々しく身を寄せた。
「頬、すごく痛い……頭も、少しくらくらするの……さっきのせいかも……」
甘くか細いその声が、真田修一の注意をすべて奪い去る。
彼の眉がきゅっと寄った。
もう後ろを見ることはない。
「大丈夫だ。すぐ病院へ連れていく」
「先に車で待ってろ。すぐ行く」
林田知代は素直に頷き、軽やかに彼の腕から降りた。
数歩進んだところで、ふと後ろを振り返る。
その唇に浮かんだのは、勝った者だけが見せる歪んだ弧。
それを一瞬だけ残し、彼女は去っていった。
真田修一は車のドアを閉めると、ようやく日向茜のほうへ向き直った。
ゆっくり歩み寄り、伏せた目で彼女を見下ろす。
口元にこびりついた血。床に広がる生々しい血だまり。
日向茜は思った。
これなら、さすがに信じるだろうと。
ほんの少しでも、心が揺らぐだろうと。
――甘かった。
真田修一の顔には、何ひとつ浮かばない。
あるのは、さらに深まった嘲りと、あからさまな苛立ちだけ。
「へえ」
薄く嗤う。
「同情を引くために、吐血の真似まで始めたのか?」
冷え切ったその声音が、容赦なく落ちてくる。
「日向茜。お前、本当にどこまででも気持ち悪くなれるんだな」
たったそれだけの、軽い一言。
なのに、どんな拷問よりも残酷だった。
日向茜の心が、音もなく奈落へ沈んでいく。
そうか。
この男の目には、彼女の生き死にですら、見飽きた芝居にしか映らないのだ。
無意識に、手が伸びる。
せめてその裾だけでも掴みたかった。
けれど、触れる前に冷たく払われた。
「触るな」
真田修一は一歩退く。
その仕草に滲む拒絶は、あまりにも露骨だった。
「その薄っぺらい芝居面を引っ込めろ」
「お前が死ぬはずないことくらい、俺はよく知ってる」
芝居。
虚偽。
見せかけ。
かつての日向茜なら、笑い飛ばせたのかもしれない。
自分は強い、耐えられる、そう思えていた頃なら。
けれど二年。
その結婚生活は、長く、鈍く、終わりの見えない凌遅だった。
気づけば誇りも骨も、少しずつ削り取られていた。
日向茜はゆっくり顔を上げる。
血と涙で汚れたその顔に、奇妙なくらい穏やかな静けさが差した。
自分でも滑稽だと思うほどの、死んだ灰みたいな平穏。
もう問い詰めるのも、抗うのもやめた。
ただ胸の底へ埋め続けてきた、最後のたった一つだけを口にする。
「真田修一……」
声はかすかに揺れた。
けれど、さっきまでの絶叫はもうない。
「ひとつだけ……確かめたいの」
焼け跡みたいな沈黙の中で、彼女は言った。
「この二年……ほんの少しでも」
「たとえ一瞬でも、私に本気で向き合ったことはあった?」
それが最後の願いだった。
あまりにも卑しく、惨めで、愚かな願い。
たとえ欠片でも肯定がもらえれば。
たとえ嘘でも、そこにすがれば。
この痛みのすべてに、ひとつくらい意味のようなものを与えられる気がした。
真田修一は、その問いに一瞬だけ目を見開いた。
だが次の瞬間には、なんでもないことのように身を屈め、彼女の耳元へ口を寄せる。
「愛してたか、だと?」
低く、二人にしか聞こえない声。
「日向茜。お前、どうしてそんなに甘いんだ」
その一言で、最後の幻想がひび割れた。
「教えてやる」
囁くみたいな声なのに、刃より鋭い。
「俺がお前と結婚したのは、報復のためだ」
「お前を、そしてお前の母親を踏みにじるため」
「お前が大事にしてるものが、一つずつ壊れていくのを、目の前で見せつけるためにな」
