第1章 あんたって、本当に生まれつき卑しい人間ね
結婚して二年。小林茉由は、ようやく妊娠した。
検査結果の紙を握りしめたまま、胸が高鳴る。今日は結婚記念日。これ以上の贈り物があるだろうか。
玄関を入った瞬間、夫の妹の声が耳に飛び込んできた。
「お母さん、聞いたよ。雪乃お姉ちゃん、帰ってきたんだって。しかも妊娠してるって!」
――小林雪乃が、戻ってきた。しかも妊娠。
小林茉由は、手の中の紙をぎゅっと握りしめた。
「まあ、本当? あの子、もう妊娠だなんて。さすがね、腹が据わってるじゃない」
姑は満面の笑みで振り返り、玄関に立ち尽くす茉由と目が合った。次の瞬間、その笑みが嘲りに変わる。
「……あら、あんた。聞いてたの? だったら少しは身の程を知りなさい。雪乃はいま、墨也の子を身ごもってるのよ。子どもも産めないくせに、いつまで葉山家に居座るつもり?」
義妹も鼻で笑った。
「お母さん、どうせあの人、厚かましくて出ていけないんでしょ」
「当時だって、あの女が手を使わなきゃ……墨也が選ぶわけないのに」
茉由の顔から血の気が引いた。
この二年、姑と義妹は一度たりとも優しい顔を見せなかった。今までは耐えてきた。けれど――雪乃が妊娠したとなれば、この家に自分の居場所は残っているのだろうか。
「お母さん、買い物行こうよ。雪乃さんが帰ってきたら、プレゼント渡したい!」
義妹はそう言うと姑の腕を引き、外へ向かった。すれ違いざま、わざと肩をぶつけてくる。
「邪魔よ、どいて」
二人の背中が遠ざかるのを見送った瞬間、茉由は力を抜かれたように膝をつき、ぽろぽろと涙をこぼした。
妊娠を知ったあの瞬間の幸福が大きかったぶん、いまの痛みは深い。姑と義妹の言葉は、冬の冷水を心臓にぶちまけられたみたいで、体の芯まで凍えていく。地獄へ突き落とされたような寒さだった。
部屋へ戻り、呆然と座り続けた。
夜が白み始める頃、ようやく扉が開く。
入ってきた男の体から、濃い酒の匂いが部屋中に広がった。
茉由は反射的にベッドを降りた。雪乃の妊娠が本当なのか――それだけを確かめたかった。だが、言葉を発するより早く、男の唇が荒々しく覆いかぶさる。
「……雪乃……っ、ん……」
抗えない。腰を抱き寄せられ、身動きが取れない。押し返そうとした手首はあっさり封じられた。
これまで、葉山墨也の求めに茉由は逆らわなかった。彼は時折、悪魔みたいに容赦がなく、抵抗する術などなかったから。
けれど今日は違う。
姑の言葉が頭を刺す。彼の心の奥にいる女が戻ってくる。しかも、子どもまで――。
胸がざわついて、息が苦しい。
そして思い出す。自分も――いま、妊娠している。
続けてはいけない。
「やめ……っ」
茉由は必死に意識を引き戻し、思い切り噛みついた。
「……っ!」
男が低くうめく。
――この女、今日はどうした。噛むだと?
パチン!
照明が点き、男の全身から凍てつくような気配が立ち上った。
「小林茉由、何のつもりだ。発狂したか?」
葉山墨也の声には、抑えた怒りが滲んでいた。今日はかなり飲んできたのだろう。部屋に漂う女の甘い香りに煽られ、理性が切れかけたところを噛まれた。苛立ちは一気に噴き上がる。
茉由は怒らせたと悟り、恐る恐る顔を上げた。深い瞳と目が合う。――綺麗だ。
怒りで眉は険しくても、整った顔立ちは変わらない。この顔に、彼女は二年間、夢を見ていた。だが今夜、その夢は砕けた。彼の視線に、情など一度もなかったのだと。
彼は言っていた。手段を選ばずのし上がる女が、一番嫌いだと。
茉由は息を整え、できるだけ柔らかく尋ねた。
「墨也……お義母さんから聞いたの。雪乃が、海外から戻ってくるって……本当?」
墨也は不機嫌そうに眉を寄せ、探るような目を向ける。――また何か企んでいる、と疑っているのだろう。
結果を知らなければ、心が落ち着かない。
茉由は目を閉じ、投げやりに口にした。
「……それに。あの子、あなたの子を身ごもってるって聞いた」
その一言が、墨也の逆鱗に触れた。
凄まじい殺気が噴き出し、彼の手が茉由の喉を締め上げる。
「っ……!」
必死に足掻くが、息が吸えない。顔が赤く染まっていく。
墨也は見下ろし、氷のように冷たい声で吐き捨てた。
「小林茉由。俺の兄貴を殺して、実の姉の代わりに俺のベッドに潜り込んだだけじゃ足りないのか。今度は雪乃にまで手を伸ばす気か?」
彼の目に宿る殺意に、茉由は本気で殺されると思った。
「弘義のじいさんの威光で、俺を一生縛れるとでも?」
「二年だ。まだ生き地獄が足りないか?」
一言一言が憎悪そのものだった。息ができず、目の端が血走り、涙が止まらない。それでも男は、欠片ほどの情けも見せない。
――本当に、心の底から嫌われている。
墨也は陰鬱な顔で、ただ嫌悪だけを向けた。
「小林茉由……お前って、生まれつき下品だな」
そのとき、スマホが鳴った。
墨也は手を放し、背を向けて通話に出る。
「家にいる……」
「怖がるな。俺がついてる」
その声は、茉由が一度も見たことのないほど優しかった。荒ぶる気配は消え、慰めるような口調だけが残る。
――相手は雪乃。考えるまでもない。
「ごほっ……ごほっ……」
茉由は床に崩れ、酸素を貪るように息を吸った。男は一度も振り返らない。この電話がなければ、今夜、自分は生きていなかったかもしれない。
通話を終えた墨也は、倒れた彼女を見下ろし、冷たく告げた。
「小林茉由。余計な真似はするな。次があれば、爺さんでも守れない」
そう言い捨て、扉を乱暴に閉めて出ていった。
窓から見える車は、慌ただしく走り去る。――雪乃のもとへ。
「……ふふ」
妊娠報告書を手にしたときの喜びは、今夜のすべてで粉々になった。
葉山墨也にとって自分は道具でしかない。好きになどなったことはない。姑と義妹の嘲り。望んだはずの子どもさえ、滑稽な冗談みたいだった。
この結婚は、最初から最後まで――自分だけが夢を見ていただけ。
茉由はベッドの端で、涙を止められずにいた。小さな嗚咽は次第に大きくなり、やがて――笑い声に変わった。
子どもの頃の約束。これまでの執着。今日という結婚記念日。全部、笑い話だ。
葉山墨也の心の中の高嶺の花――小林雪乃は妊娠し、自分は席を譲るべきなのだろう。
その夜、茉由は一睡もできなかった。夜が明ける頃には、心の中で決めていた。
「え? あんた、葉山墨也の子を妊娠したの?」
「それで病院行って堕ろすって? 正気!?」
大学時代からの親友、石原友里が電話口で跳ね起きた。
