第3章 人違いだ

「茉由、おかえり!」

スーツ姿の石原友里が笑いながら駆け寄ってくる。双子もきゃっきゃと笑い、彼女の胸に飛び込んで「おばちゃん!」と甘えた声を上げた。

友里は二人の頬に順番にキスを落とし、そのまま連れ出しながら首をかしげる。

「海外じゃあんなにうまくやってたのに、どうして急に戻ってきたの?」

「……あの事故、どうも裏がある気がするの」

小林茉由は唇の端を吊り上げ、艶めく笑みを浮かべた。

「それに――小林雪乃のいい気な日々も、そろそろ終わり」

もう五年前の、びくびくして言い返せない女じゃない。奪われたものは、全部取り返す。倍にして返す。

友里が「へえ……」と舌を鳴らす。

「やば。茉由、別人じゃん。しばらく見ないうちに、ずいぶん変わったね。今のあんた、眩しすぎて目が痛いわ。追っかけも山ほどいるでしょ」

「いるよ。みんな、うざい」

茉由が答えるより先に、小さな大人みたいな口調で小林裕斗がむすっと言った。

「こら、そんな言い方しないの」

茉由は指先で息子の額をこつん、と軽く叩き、友里に苦笑する。

「からかわないで。……それより友里、すっかり女社長って感じじゃない。お兄さんから聞いたけど、ずっと相手いないんでしょ? 結婚する気ないの?」

「男って退屈。私は茉由のほうが好き」

友里はけろりと笑った。自分の立場じゃ、好きな男を自由に選べるわけでもない。そもそも男に興味が薄い。仕事のほうがずっと面白い。

和やかな会話の背後――黒いランボルギーニの後部座席に、冷えた顔の男が座っていた。

高級なオーダースーツ。眉間に刻まれた、近寄りがたい冷淡さ。出張帰りの葉山墨也だ。

さっき視界の端に映った、見覚えのある影が頭から離れない。

……馬鹿げてる。

彼は自嘲して小さく首を振った。あの女は崖下で死んだ。ここにいるはずがない。

嫌いだったはずなのに、どうして思い出してしまう。

五年前、泣きながら罵られた光景が蘇り、胸がちくりと痛んだ。

「葉山社長。小林さんが、社長のご帰国を知ってお食事をご一緒したいと」

秘書の声に、墨也はまぶたを伏せる。

「わかった」

感情を奥へ押し込み、声だけを氷みたいに戻した。

「ふたりとも……ほんっと可愛い。よかった、あのとき――」

友里は言いかけて、ぱっと笑顔を作り直す。

「……ううん、何でもない。安心して行ってきな。ふたりは私が見てるから」

精巧な人形みたいな双子を見つめ、友里の母性が一気に爆発していた。葉山墨也はムカつくけど、遺伝子は反則級だ。特に裕斗の顔面は、どう考えても罪。

茉由はそれを見て、ふっと笑う。

友里の言いたいことは分かっている。あの夜、死にかけた直後は「もう産まない」と思った。けれど二子だと知った瞬間、心が折れた。

子どもは子どもだ。葉山墨也への憎しみで、巻き込むべきじゃない。

今回帰国したのは復讐のため――それだけじゃない。

かつて自分を引き取ってくれた孤児院の院長が亡くなったのだ。あの人は、茉由にとって恩人だった。最後くらい、きちんと見送りたい。

子どもを友里に託し、茉由は車を借りて孤児院へ向かった。

「見て。これがママを捨てたクズ男パパ」

ニュースに映る写真を指さし、裕斗がぷんすかと怒った。

「じゃあ、お兄ちゃん。秘密計画、どう実行するの?」

小林祐奈はおとなしく、兄の言うことに素直に頷く。

「秘密計画? あんたたち、何企んでんの」

果物の皿を持ってきた友里が、裕斗の頭をわしゃわしゃ、祐奈の頬をむにっとつまむ。

「今ここで言いなさい。大したことじゃないなら手伝ってあげる。黙ってるなら、ママに言うよ」

双子は顔を見合わせた。次の瞬間、裕斗がにこっと笑い、綺麗な切れ長の目を細めて友里の肩へ回り込む。

「おばちゃん、やっぱり最高! 本に書いてあったよ。美人は心も綺麗なんだって。だからおばちゃん、こんなに可愛いんだ!」

「うん! おばちゃん、これからもっともっと綺麗になるよ!」

祐奈も兄に合わせてこくこく頷く。

「……」

友里は無言になった。

……この子たち、口が達者すぎる。鬼か。

まあいい。自分も葉山墨也は大嫌いだ。ちょっとくらい嫌がらせしてやるのも、悪くない。

T市グランドホテル。

そこには、ありとあらゆるカメラと記者が押し寄せていた。入口は人でぎゅうぎゅう、誰もが中へ入りたくて必死だ。

葉山グループ社長が、噂の恋人・小林雪乃の誕生日を祝うため、ホテルを丸ごと貸し切った――。

館内の大型ビジョンには、二人が抱き合うツーショットがこれでもかと流れている。

葉山墨也にはこれまで浮いた話が一切ない。正妻はすでに亡くなったとも囁かれていた。そんな男のスキャンダルに、記者が沸かないはずがない。ファンまで混じって、「社長がどれだけ溺愛してるのか見たい」と騒いでいる。

友里は双子に引っ張られて来たものの、この光景を見た瞬間、胃がむかむかした。

「うわ……最悪。私、雪乃ほんと無理」

「裕斗、ここに来るのが計画?」

「ここ、ごはん美味しいって聞いた。祐奈が気になってたから、僕が連れてきたの。お願い、おばちゃん。入ろ?」

裕斗の目はきょろきょろと忙しい。どう見ても「飯が目的」じゃない。

友里はため息をついた。

「分かった。貸し切りだけど、支配人と知り合いだから入れる。ただし、絶対に勝手に走り回らないこと。いい?」

「はーい!」

一方その頃。

小林茉由は孤児院の葬儀に参列していた。

院長は生前、多くの人を助けた。参列者の中には名の知れた人物も多く、式は厳かで、盛大だった。

茉由は黒い喪服に着替え、マスクをつけて最後列に立つ。目立ちたいわけじゃない。ただ、院長を悼みに来ただけだ。

背後で、若い女たちの囁きが聞こえた。

「葉山墨也も来てるって」

「今日って小林雪乃の誕生日パーティーじゃないの? なんでここに……?」

その名前を耳にしただけで、胸の奥がきゅっと痛む。何年経っても、身体が勝手に反応するのが腹立たしい。

ざわっ――。

突然、人波がどっと揺れた。茉由は肩を押され、足を取られる。

「……っ」

倒れそうになって、とっさに身体をひねる。喪服が乱れないように――そう思った瞬間、硬い胸板にぶつかった。

清冽な煙草の匂いが鼻先をかすめる。

……この匂い。

茉由の指先は、相手のスーツを掴んでいた。高そうな生地に、くっきりと皺が寄る。周囲から小さな驚きの声が上がった。

茉由は顔を上げ、冷たく光る視線とぶつかる。

――最悪。やっぱり、葉山墨也。

マスクをしていてよかった。茉由はサングラスを押し上げ、丁寧に頭を下げる。

「すみません。足を滑らせてしまって……助けていただいてありがとうございます。スーツは弁償します」

声も、仕草も、礼儀正しいほどよそよそしい。

墨也の眉が寄った。次の瞬間、彼は乱暴に茉由の腕を掴み、引き寄せる。

もともと体勢の崩れていた茉由は、抵抗する間もなく男の胸へ落ちた。

強い指が、両腕をがっちり固定する。

「小林茉由……!」

低く、噛みつくような声。

「お前……死んでなかったのか?」

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