第4章 彼がまさか彼女を探していたなんて
男は一語一語を噛みしめるように、ほとんど歯ぎしりする声で言った。わずかに震えまで混じっている。
「誰だ、お前は」
「……どなたですか? すみません、人違いだと思います。あなたのこと、知りません」
無意識に爪が掌へ食い込み、じん、と痛む。その痛みで小林茉由は我に返った。
葉山墨也を見上げる視線は冷たく、そして少しだけ驚きが混ざっていた。まるで、初対面の他人を見る目。
葉山墨也の頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
マスク越しでも、声も目も――間違えようがない。自分が見誤るはずがない。そう信じたまま、彼は手を伸ばし、彼女のサングラスとマスクを乱暴に引き剥がした。
露わになった顔を見た瞬間、葉山墨也は露骨に顔をしかめ、反射的に彼女を突き飛ばした。
「……誰だ、お前」
瞳の奥は衝撃で揺れ、表情には信じられないという色が残っている。さっきまで胸に灯った希望は、この瞬間、跡形もなく掻き消えた。
彼女へ向ける視線も、一転して嫌悪に変わる。
小林茉由は、その急激な変化を見て、胸の奥で冷笑した。
――探してたの? 私を。
さっきの必死さ。まるで、彼女が大事な存在みたいな顔をして。
茉由はサングラスをかけ直し、興味深そうに、まるで珍しい生き物でも見るように男を眺めた。
「本当に人違いじゃないですか? 私、帰国したばかりですし……お会いしたこと、ないと思いますけど」
その丁寧で、どこまでも距離のある言い方に、葉山墨也の胸がぽっかりと空いた気がした。
目の前の女は、目を奪うほど派手に美しい。眉と目の間の小さなほくろも、彼女にはなかったはずだ。立ち居振る舞いには、成熟した女の艶が滲む。あの女とはまるで違う――それなのに、なぜか、あの懐かしい感覚だけが刺さってくる。
昔の小林茉由は、彼の影みたいな女だった。自分の意志もなく、卑屈で臆病で、いじめられても言い返せない。彼女をメディアに出さなかったのも、世間の前に立たせる価値がないと思っていたからだ。
だが、この女は違う。
自信に満ち、堂々としている。仕事の場で切れ者として生きてきた女の匂いがした。
茉由は視線を受け止めたまま、掌の汗を誤魔化すように指を握り直す。
――顔が違うから、迷ってる。
それが救いだった。もし「死んでいない」と気づかれたら。以前みたいに、また首に手を伸ばされるかもしれない。
これ以上ここにいたくない。
茉由は礼儀正しい笑みを作った。
「さっきのことは……すみません。これ、弁償です。失礼します」
そう言って、彼女は宝石を一粒差し出した。自分でも気に入っているデザインで、葉山墨也のスーツ代くらいには十分なる。
茉由は踵を返し、すたすたと歩き去った。
容姿が目立つせいで、さっきから周囲の視線が集まっている。秘書の桐谷辰哉は、完全に固まっていた。
あの女は確かに美人だ。だが葉山社長は、ずっと亡くなった前妻だけを胸に抱いて生きてきたはずだ。何年も女を寄せつけず、小林雪乃でさえ遠ざけてきた。
なのに今日は、あんなふうに掴んで離さないなんて。
――ただ……。
確かに、どこか奥様に似ていた。
「葉山社長……いまのは……?」
桐谷辰哉が恐る恐る訊ねる。社長の心中など、もう読めなかった。
冷静で自制の人が、あんな真似をするなんて。きっと、あの女を小林茉由だと思い込んだのだろう。
「先に、参る」
葉山墨也はすでに淡々とした顔に戻っていた。焼香台の前に進み、静かに焼香を済ませる。それから合掌して故人に一礼すると、踵を返してその場を立ち去った。
帰りの車内でも、葉山墨也はさっきの光景が頭から離れなかった。
「桐谷辰哉……あいつ、死んでないと思うか」
桐谷辰哉は、その「あいつ」が小林茉由だとすぐに理解した。言い淀みながらも、結局は口にする。
「葉山社長……あそこは底が見えない崖です。運転手も原形を留めないほどで……奥様が助かるとは……」
あの高さから落ちて生きているなど、あり得ない。木に引っかかって命拾いした石原友里みたいな奇跡でもない限り。
小林茉由は遺体すら見つからなかった。あのとき、葉山墨也は陸海空の総力を挙げて捜索にあたり、T市全体を騒然とさせた。それでも見つかったのは血に染まった衣服の切れ端だけ。周囲には獣が出入りした痕跡まで残っていた。
それ以来、「小林茉由」という名は禁句になった。T市の人間は誰も、葉山墨也の前でその名を口にしない。
「……いい。あいつに、そんな芸当ができるはずもない」
葉山墨也は手の中の宝石を指で弄ぶ。国際的に名の知れたデザイナーAEの作品だ。
AEはここ二年で一気に名を上げたデザイナーで、作品数は少ないのにどれも入手困難。それを、あの女は躊躇なく人に渡した。小林茉由に、そんな力があるはずがない。
桐谷辰哉は口元を引きつらせた。
――そこまで言い切るなら、さっきどうして掴んで離さなかったんですか。
ただ、ため息が出る。社長は、思いが強すぎて幻を見ているのだろう。
「葉山社長、このままT市グランドホテルへ……?」
桐谷辰哉が確認する。小林雪乃はこの日のために、葉山の祖父へずっとねだり続けていた。
「……ああ」
そのときだった。
桐谷辰哉が急ブレーキを踏む。しかし間に合わない。鈍い衝撃とともに、車は前の車へ突っ込んだ。
「……っ」
桐谷辰哉の怒りが一気に噴き上がる。
ぶつけられた側の車から、小林茉由が慌てて降りてくる。相手の顔も確認せず、早口で頭を下げた。
「すみません! 免許取ったばかりで、運転に慣れてなくて……!」
「おい、運転できねえなら――」
そこまで言いかけて、桐谷辰哉の言葉が喉で止まった。
視線が、ぶつかった。
二人とも、沈黙と驚きの表情のまま固まる。
小林茉由は思わず天を仰ぎたくなった。
――さっき別れたばっかりなのに、もう?
どんな運の悪さ。今日は自分で運転するんじゃなかった。
気まずいし、苛立つし、最悪だ。持ち物も少ない。今度こそ弁償できるものがない。
焦ったのが悪かった。石原友里から「子ども二人を連れてT市グランドホテルにいる」と聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
ニュースでは葉山墨也がそこで小林雪乃の誕生日を祝っている。もし鉢合わせたら――息子の小林裕斗の顔は、あまりにもバレやすい。
慌てたせいで、ブレーキとアクセルを踏み間違えた。
そして結局、また葉山墨也にぶつけてしまった。
「……お前、何者だ」
葉山墨也の目には、すでに疑念が宿っていた。こんな偶然が続くはずがない。
別れた直後に、また出くわすなど。
茉由はこれ以上関わりたくなかった。
「だから言ったでしょう。知りませんって。私、初心者なんです。さっきのは事故。責任は全部こちらにあります。弁償します」
そう言って、彼女は桐谷辰哉へ電話番号を差し出した。
「急いでるので、修理代は私が払います。連絡してください」
「見積もりを出せ」
葉山墨也が唐突に、冷たく言った。
桐谷辰哉の目に一瞬だけ同情が浮かぶ。すぐに計算し、修理の明細を作った。
「この車は世界限定の特別仕様でして、ボディの各部品がデザイナー特注です。修理もすべて特注対応になりますので……合計で、2,240万円です」
小林茉由は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
――ふざけてるの?
心が削られる。葉山墨也、どれだけ金持ちなの。
……いや、いい。厄落としだと思えばいい。
茉由は胸を押さえるような気持ちで小切手を出し、サインをした。
車へ戻ろうとした、そのとき。
男が先にドアを開け、彼女の車へ乗り込んだ。
「……何してるの!?」
小林茉由は二拍遅れて我に返り、声を荒らげた。
