第5章 こんなに偶然?信じる?
「これ、端金じゃない。あんたの小切手が本当に落ちるって、どうやって信用しろっていうんだ?」
葉山墨也の言い分はもっともだった。小林茉由が乗っているのは、石原友里から借りた地味なベンツ。数千万ともなれば笑って済ませられる額じゃないし、返せるのかと疑われても仕方がない。
小林茉由は小さく息を吐いた。
「でも、今どうしても急ぎの用があるの。先にT市グランドホテルへ行かなきゃ。……だったら通報して? 私、届け出出しておく。そうすれば、私が逃げる心配はないでしょ」
「ちょうどいい。俺もそこへ行く。こっちの車は壊れた。乗せていけ。……ただ、お前の運転は下手すぎる」
葉山墨也はちらりと桐谷辰哉を見た。
「お前が運転しろ」
「……」
小林茉由は言葉を失った。
そうだ。今日は葉山墨也が小林雪乃の誕生日を祝う日だった。
あの男から一刻も早く離れたくて必死になって、肝心なことを忘れていた。
……まあいい。便乗するのは構わない。
けど、運転が下手って、どういう意味?
小林茉由はぐっと堪えた。ぶつけたのは自分だ。ここで噛みついても分が悪い。助手席に乗ろうとドアを開けた瞬間、桐谷辰哉がケーキを助手席へ置いてしまい、彼女は一歩引いて後部座席へ回るしかなかった。
桐谷辰哉も正直、社長の意図が読めない。フロントが少し当たった程度で走行には支障がないのに、なぜわざわざこの小さな車に詰め込まれるのか。
だが彼は余計な口を挟まない。社長の命令は絶対だ。
レッカーの手配を済ませ、観念して運転席に収まった。
葉山墨也は道中ほとんど喋らない。ただ無言で小林茉由を観察していた。――この女、妙に見覚えがある。
小林茉由は前だけを見つめ、何も見ず、何も聞こえないふりをして、口を閉ざし続けた。
目的地が近づいた頃、石原友里から電話が入る。
「いつ着くの? みんなお腹空かせてるよ」
「待たなくていい。先に食べて、食べ終わったら帰って」
小林茉由は早口で言った。下手に待たせたら、鉢合わせする可能性が上がる。葉山墨也はすでに自分を疑っている。これ以上ややこしくなったら、説明のしようがない。
通話を切ってから気づく。葉山墨也の視線が、彼女のスマホ画面に刺さっていた。表示されていた発信者名は――石原友里。
「……」
小林茉由は目を逸らした。
昔から、彼と目を合わせるのが怖かった。切れ長の鋭い目。覗き込まれたら、胸の内を一瞬で暴かれそうで――なのに、その目の持ち主が何を考えているのかは誰にも読めない。
緊張で、無意識に爪をいじってしまう。昔からそうだ。焦ると必ず出る癖。
「石原友里と知り合いか?」
葉山墨也が先に口を開いた。鋭い双眸が値踏みするように細まる。
「海外の代行で知り合っただけ。……なに、あなたも知ってるの?」
小林茉由はわざと驚いたふりをして肩をすくめた。
「お金持ちの世界って狭いのね」
落ち着け。怖がるな。今の彼は、この顔を知らない――。
小林茉由は自分に言い聞かせ、必死に平静を装って視線を返した。
「俺が今日T市グランドホテルに行く。偶然、孤児院で会って、帰りにまたぶつかった。……出来すぎじゃないか?」
葉山墨也は口元だけを吊り上げ、笑っているのか笑っていないのか分からない顔で彼女を見た。
――やばい。
小林茉由の心臓がひゅっと縮む。
この男は、親しくない相手の前では本音を見せない。外で怒ってるときほど、こういう笑い方をする。
つまり、彼は本気で疑っている。
でも同時に――まだ気づいていない。自分だとは、認めていない。
「じゃあ、偶然じゃないって何? 私がわざと近づいたって言いたいの?」
小林茉由は鼻で笑った。
「ねえ、そこのあなた。自意識過剰すぎない? 最初に私の腕掴んできたの、あなたのほうでしょ」
その会話を聞いていた桐谷辰哉が青ざめた。特に「自意識過剰」の一言が致命傷だったのか、彼は反射でブレーキを踏み込んだ。
「きゃっ――」
小林茉由は体勢を崩し、反応する間もなく葉山墨也の胸に倒れ込む。
葉山墨也は相変わらずの薄い笑みで見下ろした。
「今、誰が抱きついてきた?」
「……」
小林茉由は言葉を失う。
葉山墨也は唇の端を上げた。さっき女に言い返されて残っていた不快感が、彼女の負け顔を見た途端、妙に霧散していく。
「これが、あなたの運転は上手いって話? 市街地の平坦な道で急ブレーキとか、ありえないんだけど!」
怒りの矛先がない小林茉由は、桐谷辰哉に火を向けた。
桐谷辰哉だって理不尽だ。社長の鼻先に指突きつけて罵る女を見たら、誰だって動揺する。
「もういい、あんたたちと話してる暇ない!」
目の前はT市グランドホテル。小林茉由はドアを開けて降りようとした――が、手首を掴まれる。
「車で弁償するつもりか? よく考えたもんだな」
小林茉由はカッとなり、振り返って運転席からキーを引き抜いた。
「小切手は本物よ。信じる信じないは勝手! 疑うなら通報すれば!」
吐き捨てるように言って、彼女はそのまま歩き去った。これ以上ここにいたら、罵倒が止まらなくなる。
怒りを纏って去る背中を見送りながら、葉山墨也の目には逆に笑みが滲んだ。
桐谷辰哉は幽霊でも見たような顔になる。
社長が、笑った?
奥様が行方不明になってから、社長が心から笑うところなんて一度も見ていないのに。
「葉山社長……あの女性、小林茉由ではないと思います。さっきの様子、演技には見えませんでしたし、たぶん本当に偶然で――」
「……お前、何を根拠にそう判断した?」
葉山墨也が冷たく遮る。
桐谷辰哉はびくっとして、しどろもどろに続けた。
「そ、その……連絡先も聞いてきませんでしたし、小切手を切るのも、繋がりを作りたい感じじゃなくて……。もし本気で近づくつもりなら、もっと引き留めるというか――」
葉山墨也の顔色がどんどん暗くなるのを見て、桐谷辰哉はそれ以上言えなくなった。
「説明は立派だな」
葉山墨也が冷笑する。桐谷辰哉がようやく息をついた、その次の言葉が地獄だった。
「……ボーナスは十分出してる。昇給は要らないな」
昨日、昇給申請を出したばかりの桐谷辰哉は固まった。
――自分を殴りたい。
泣きたくなるのを堪えながら、心の中で「余計なことは言うな」を十数回唱え、桐谷辰哉はケーキを抱えて葉山墨也の後ろについてエレベーターへ乗り込んだ。
小林雪乃の誕生日パーティーは最上階で行われる。T市グランドホテルがここまでの待遇を誰かに与えることは滅多にない。それは葉山墨也が彼女に与えた「特別」であり、T市の人間も、葉山墨也が小林雪乃に箔をつけているのだと理解していた。
会場は賑やかだった。葉山墨也と折り合いの悪い石原家を除き、他の家はどこも一、二人は顔を出している。
皆の目的は一つ。葉山墨也が本当に小林雪乃との関係を公にするつもりなのか――それを見届けるためだ。噂は何年も流れているのに、葉山墨也は一度も正式に認めていない。
そして今日もそうだった。パーティー自体は派手に開かれているのに、主役級の男がまだ姿を見せない。そのせいで、会場にはひそひそ声が増えていく。面白がって火に油を注ぐ連中も少なくない。
小林雪乃の視線はずっと入口に張りついていた。葉山墨也は来ると約束した。彼が約束を破らない男だと分かっていても、ここまで遅いと焦りが募る。
「雪乃。こんな大事な日に、葉山社長……あなたの彼氏なのに、まさか顔も出さないとか?」
甘い声で刺を混ぜたのは、牧野家の三女牧野星美だった。彼女は昔から小林雪乃を妬んでいる。
「記者も、社長があなたを恋人だって発表するのを待ってるって聞いたけど。来なかったら……さすがに恥ずかしいよね」
小林雪乃は引きつった笑みを作った。
「来ないわけないでしょ。プレゼントだって先に届いてるもの。海外から戻ったばかりだし、少し遅れるくらい普通よ」
