第6章 ママ、どうして私を捨てたの?

小林雪乃は顔色が冴えなかった。

本当のところ、彼女も賭けに出ていたのだ。小林茉由が死んでからというもの、葉山墨也の自分への態度は、熱くも冷たくもない――そんな煮え切らなさが続いていた。だからこそ、今日ここで一歩踏み込んで、彼を追い込んでみた。

だが、いざやってしまうと不安が胸を締めつける。

ここまで大見得を切った以上、もし葉山墨也が来なければ――自分はT市中の笑いものだ。

そのとき、扉が開いた。

見慣れた背丈の影が入ってくるのが見えた瞬間、小林雪乃の胸に張りつめていた糸が、ふっと緩む。彼女は足早に駆け寄った。

「墨也、来てくれたのね。みんな、あなたが来て一緒にケーキを切るの、待ってたのよ」

頬を染めたような笑み。けれど瞳の奥には、隠しきれない得意げな光が宿っている。

周囲で面白がっていた連中も、途端に口をつぐんだ。

「……葉山墨也、ほんとに来たのか。じゃあ噂の彼女って本物なんだな」

「だよな。小林雪乃なんて――私生児のくせに、葉山墨也を捕まえるとか」

「私生児」という言葉が耳に刺さり、小林雪乃の表情が一瞬だけ固まる。だが葉山墨也を見上げた途端、また勝ち誇ったように口元が緩んだ。

私生児だろうが何だろうが、彼が選んだのは自分だ。T市の名家の令嬢たちが誰ひとり落とせなかった男が、いま自分の隣にいる――。

葉山墨也は、彼女が距離を詰めすぎているのに気づき、眉をわずかに寄せた。

ただ、今日は彼女の誕生日だ。最低限の体裁は整える。

「……ケーキ、切るぞ」

「小林さん、こちら社長が特別にご用意されたケーキです」

桐谷辰哉が手際よくケーキを差し出し、さりげなく二人の間に割って入る。以前一度痛い目を見た男の、露骨なまでの気配りだった。

「ありがとう、墨也。すごく綺麗……!」

小林雪乃は嬉しそうに笑った。けれど内心では舌打ちする。

――この桐谷辰哉、空気が読めないにもほどがある。今日の主役は自分と墨也なのに、どうして間に入ってくるのよ。

彼女は位置を変え、葉山墨也の腕に絡みつくようにして、ケーキの前へと誘った。

周囲の女たちの妬む視線が、たまらなく心地いい。

その瞬間だった。

「ママ……どうして、ほかの男の人とそんなにくっついてるの? わたしとパパ、いらないの……?」

幼い声が、会場の空気を真っ二つに裂いた。

ケーキナイフを取ろうとしていた小林雪乃の手が止まり、視線が一斉に声のほうへと吸い寄せられる。

そこにいたのは、小さな女の子と、その手を引かれるように立つ病弱な男だった。男は土気色の顔で、長く病を患っているのが一目でわかる。二人とも身なりは質素で、特に女の子は――どこか小林雪乃に似ていた。眉や目元が、妙に。

周囲の目が、露骨に色を変える。

小林雪乃もそれに気づき、背筋が冷たくなった。

「墨也、違うの。私、あの人たちなんて知らない……!」

口ではそう言い切りながら、心臓が嫌な音を立てる。

子どもなんて産んだことはない。なのに、あの子の顔が……どうしてこんなに自分に似ているの?

男が、情けないほど弱々しい声で縋りついた。

「雪乃……俺が貧乏なの、嫌なんだろ。肺がんの末期で、もう長くない。先のこと考えるのは当然だよ……でも、せめて子どもだけでも連れてってくれないか。まだ小さいんだ。俺が死んだら、この子はお前しか頼れない……」

「末期がん」という言葉に、会場の視線は一気に同情へ傾く。

そして次の瞬間、小林雪乃へ向けられるのは、あからさまな軽蔑だった。あの子はどう見ても小林雪乃の子だ。子どもがいながら葉山墨也に取り入るなんて、どれだけ厚かましいのか――。

記者たちは、目の色を変えた。

本来は葉山墨也と小林雪乃の噂のツーショットを撮るだけのつもりだったのに、まさかこんな展開が転がり込むとは。

名門社長の恋人が、夫と子ども持ち――?

ただの熱愛報道なんかより、よほど刺激的だ。明日の一面が確定する。

「やめて! 撮らないで!」

フラッシュがバシャバシャと焚かれ、小林雪乃の目が焦りで赤くなる。墨也に説明したいのに、記者を止めなければならない。けれど、数が違いすぎた。光は容赦なく、四人を照らし続ける。

女の子が、わざとらしいほど涙をこぼしながら言った。

「ママ……わたしとパパ、もう嫌いなんだよね。だから今日ここに来たのも、ただ『お誕生日おめでとう』って言いたかっただけ……パパが言ってた。ママは名門にお嫁に行くんだって。もう、ママの邪魔しちゃいけないって……」

小林祐奈は泣き顔のまま、カメラに向けて自分の顔をよく見せる。小林雪乃と六分は似ているその顔に、記者たちの手がさらに止まらなくなった。

「ねえ……ママって、ほんとにわたしとパパのこと捨てちゃうの?」

「この葉山社長と結婚したら、すごくお金持ちになるんでしょ……? だったら、ちょっとだけでいいから、わたしとパパにお金貸してくれない? パパ、死んじゃうの嫌だよ……」

幼い声で言われれば、残酷なほど効く。

記者たちの目に同情が宿り、次いで小林雪乃を見る目は嘲笑へ変わった。娘すら捨てる女――そんな烙印を押すには十分だった。

「小林さん、説明していただけますか?」

「その子、あなたにそっくりですよね。本当に捨てたんですか? 葉山社長と一緒になるために?」

「違う! 私に子どもなんていない! この子も、この男も知らない!」

小林雪乃は完全に取り乱していた。

どうして今日に限ってこんな二人が現れるのか。しかも男は末期の病気だと言う。誰かが仕組んだのではないか――自分から金を巻き上げるために、子どもまで連れてきたのでは。

そうだ。きっとそれだ。

そう思い込むほど、怒りが煮え上がっていく。

小林雪乃は憎々しげに睨みつけた。

「死ぬとか知らない! 私の金を騙し取ろうって? そんなの、絶対に無理よ!」

その一言で、記者たちの目が決定的に変わった。

これまで彼女が必死に作り上げてきた「優しくて清楚で、温和な女性」という仮面が、音を立てて剥がれていく。焦りと怒りに任せた口調。瞳の奥に滲む憎悪。自分がいまどれほど醜い顔をしているか、本人だけが気づいていない。

疑っていた記者たちも、この変わり身を見て確信する。

――これは黒だ、と。

「雪乃さん、落ち着いて……」

秘書が慌てて小林雪乃の腕に触れた。だが、その小さな制止が火に油を注ぐ。

「私の誕生日パーティーに、いきなり頭のおかしいのが二人も入ってきて嘘つくのよ!? どう落ち着けっていうの! あんた、さっさと処理しなさいよ!」

怒鳴り声が会場に響く。

葉山墨也は眉をひそめた。いま目の前にいる小林雪乃は、まるで別人だ。

あの頃――自分が怪我で目が見えなかった時期に感じた、あの優しさと柔らかさ。あれは、いったい何だったのか。時間は人をここまで変えるのか。

「墨也……助けて」

小林雪乃は、彼の表情の変化を見逃さない。唇をきゅっと噛み、今度は一転して泣き出しそうな顔を作った。

「私、そんな人じゃないって知ってるでしょ……? あの人たち、絶対に誰かに言わされてるの。わざと私の誕生日を壊しに来たのよ!」

内心では後悔が渦巻いていた。

さっきは怒りに任せてしまった。形を保つべきだったのに。しかもここは葉山墨也の場だ。今日は貸し切りのはずなのに、あの二人が入ってこられた――そこに何か裏がある。

葉山墨也が黙ったままだと、周囲は好き勝手に想像を膨らませる。

そんな記事が世に出たら終わりだ。絶対に、そんなことはさせない。

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