第6章
相馬千冬の視線もまた、安井綺世を捉えていた。
その腕に抱かれた小林雪子も、彼が一瞬見せた空白の時間に気づいていた。
彼女は千冬の引き締まった腰に腕を回し、その胸に顔を埋める。
「千冬、怖いわ!」
雪子の声には明らかな涙が混じっており、現場の混乱に怯えているのは明らかだった。
我に返った千冬は、彼女を連れて慌ただしく宴会場を脱出した。
ようやく外へ押し出され、新鮮な空気を吸うと、多くの人々が九死に一生を得た安堵に胸を撫で下ろしていた。
小林雪子は千冬に抱きついたまま、どこか嬉しそうに言った。
「そうね、千冬、私たち運が良かったわ。もう少しで閉じ込められるところだった……」
だが千冬の耳には入らない。脳裏に焼き付いているのは、先ほどの綺世の眼差しだ。
そこには、かつての記憶にあるような温もりや慕情はなく、ただ冷淡な失望だけが漂っていた。
短い休息の後、千冬は雪子を放し、再び大股で宴会場へと戻り始めた。
雪子は慌てて彼の腕を掴む。
「千冬、気でも狂ったの? 中は火事よ、厨房はいつ爆発するか分からないし、こんなに人が多いのに逆流して入ったら踏み潰されちゃうわ!」
彼女が言えば言うほど、千冬の心は冷えていった。
彼は雪子を突き放した。
「ここで待ってろ!」
そう言い残し、千冬は迷うことなく修羅場へと足を踏み入れた。
大半の人は脱出していたが、入り口付近はまだ詰まっており、焦れば焦るほど出られない状況だった。
千冬はどうにか中へ入り込んだが、厨房からの白い煙が会場に充満し、視界のほとんどを遮っていた。
千冬はなりふり構わず大声で綺世の名を呼んだ。
途中で知人に何人も会ったが、彼らと時間を浪費する気はなかった。
彼が一秒遅れれば、綺世は危険の中に一秒長く留まることになる。
この状況下では、それが命取りになるのだ。
「安井綺世、どこだ!」
千冬は白煙の中で方向感覚を失い、同じ場所を回っているような錯覚に陥った。
「ここよ……」
探し始めて三、四分ほど経った頃、ようやく綺世の声が聞こえた。
その声は弱々しく、喉の奥から絞り出したようだった。
「今行く!」
か細い声を頼りに、千冬はようやく床にうずくまる綺世を見つけた。
額には脂汗が浮かび、綺麗にセットされていた髪は額に張り付き、見るも無残な姿だった。
「立て!」
千冬は近づいて引き起こそうとしたが、彼女は力なくその手を払いのけた。
「こんな時にまで意地を張るのか?」
千冬は眉をひそめ、焦りを滲ませた。
綺世は小さく首を振った。話す力さえ残っていなかった。
下腹部からの激痛で、今にも気絶しそうだった。
さっき立ち上がれそうになった時、出口へ急ぐ群衆に再び突き飛ばされたのだ。
二度の衝撃で足を挫き、下腹部は誰かに強く殴られたような鈍痛が走っていた。
千冬はようやく異変に気づき、綺世の手の先を目で追った。
薄紫のドレスの裾には無数の足跡がつき、彼女が座っている下には、小さな鮮血の水たまりができていた。
千冬の瞳孔が開いた。
安井綺世は妊娠している!
その事実に気づき、千冬の心は再び緊張に包まれた。
だが、一瞬の動揺の後、千冬はすぐに別のことを考えた。
この子の父親は不明で、綺世も口を割ろうとしない。
今の彼女の様子は、流産しかけているように見える。
もし今回の事故で子供がいなくなれば、綺世はそれでも出て行こうとするだろうか?
綺世は彼の腕の中で完全に力を失い、白目を剥いて気絶した。
短い思考の後、千冬は立ち上がった。
……
鼻をつく消毒液の匂いが、綺世に今どこにいるかを告げていた。
重い瞼を開けると、視界は真っ白だった。
喉は砂利で擦られたように痛く、声を出そうとするだけで眉をしかめるほどの痛みが走る。
ベッドの脇では、看護師らしき人物が注射器に薬を吸い上げているところだった。
綺世はベッドに手をつき、必死に起き上がろうとした。
看護師はすぐに注射器を置き、綺世を支えた。
「私はどうなったの?」
頭はまだズキズキと痛む。綺世の記憶にある最後の人物は千冬だった。
看護師は水を持ってきて綺世に飲ませた。
「ここは私立心愛病院です。火災現場で煙を吸いすぎたのと、将棋倒しに巻き込まれたようです」
綺世は少し落ち着きを取り戻すと、無意識にお腹に手を当てた。
「赤ちゃんは?」
気絶する前の、下腹部を引き裂くような痛みを覚えている。
あれが幻覚であるはずがない。
看護師の表情が少し泳いだ。
「残念ですが、赤ちゃんは助かりませんでした。まだお若いですから、チャンスはいくらでもあります……」
看護師の優しい慰めの言葉は、綺世の心のかさぶたを剥がし、血の滴る傷口を晒すようなものだった。
綺世の瞳が揺れた。
「何の注射を打つの?」
看護師は振り返り、緊張した声で言った。
「あ、それは……掻爬(そうは)手術の前の準備です。不全流産だったので、胎盤の一部が残っている可能性がありまして……」
「妊娠一ヶ月ちょっとで、もう胎盤があるの?」
綺世は極めて冷静に問い返した。
看護師の慌てぶりはあまりに怪しく、疑わざるを得なかった。
もし本当に子供が流れてしまったのなら、なぜ意識がない間に手術を済ませなかったのか?
待機中に問題が起きるとは思わないのか?
看護師は不意を突かれ、言葉に詰まった。
綺世は唇を引きつらせ、無理やり笑みを浮かべた。
「プロのあなたたちにお任せします。手術の手順通りにしてください」
「頭が少し痛いの。先生を呼んできてもらえますか? 状況を聞きたいので」
若い看護師の手を掴み、綺世は懇願するように言った。
「すごく気分が悪くて、もう耐えられないわ」
言いながら、綺世はわざとらしく咳き込み、苦しそうなふりをした。
看護師はこうした状況に慣れていないのか、慌てて主治医を呼びに走っていった。
だが、彼女が戻ってきたとき、ベッドにいるはずの綺世の姿は消えていた。
その頃、綺世はマスクをつけて病院の階段の踊り場に隠れ、荒い息をついていた。
足には激痛が走っていたが、病身を引きずって一歩一歩病院の外へと向かった。
子供がそんなに簡単にいなくなるなんて信じられない。
ましてや、嘘もまともにつけないあの看護師が、自分の状況を本当に理解しているとも思えなかった!
どうにか病院を抜け出した綺世は、タクシーを拾った。
シートに身を預け、荒い息をつきながら告げた。
「市立病院へ!」
たとえ子供がいなくなっていたとしても、自分の目で確かめなければ気が済まない。
お腹を優しく撫でながら、綺世の瞳には確固たる光が宿り始めていた。
