第8章 由佳ちゃんが来た

北野雪乃は竹本恵梨香の不機嫌な声色を察し、すぐさま言った。「考えすぎだったわね。あのクズがシンシアなわけないし、それに腕前で言うなら、私たちの恵梨香だって病院で一番じゃない。たとえシンシアが来たってどうだっていうの? 恵梨香は美人で家柄も良くて、医術も超一流で、未来の高原家の若奥様なのよ。誰が恵梨香のあなたの輝きを覆い隠せるっていうの」

北野雪乃のお追従に、竹本恵梨香の表情はだいぶ和らいだ。

病室の外。

「何か用があるなら言いなさい」平川希は不機嫌に言った。

「その口は本当に躾がなっていないな。まともに話せないのか、死ぬとでも?」

「まともに話す? 高原社長にとって、どういうのがまともに話すってことなのかしら。昔みたいにあなたにへりくだって、言いなりになって、それとも馬鹿みたいにあなたの指示を待つこと? 私はあなたの従業員? それとも奴隷? どうしてあなたの言うことを聞かなきゃいけないの?」

平川希は立て続けに問い質し、言いながら目頭が熱くなるのを感じた。以前の自分は彼に尽くしすぎていた。何事にも細心の注意を払い、百依百順で、一切の反論もできなかった。その結果、彼は彼女がいつまでも御しやすい、柔な存在だと思い込むようになったのだ。

彼はまだ彼女が以前の平川希だとでも思っているのだろうか。彼を好きだという気持ちにつけ込んで、好き勝手にいじめられるとでも。

これからは、そうはさせない!

男の深い瞳は怒りに満ち、彼女を刺すように見据えている。その眼差しはまるで彼女を骨の髄まで焼き尽くさんばかりだ。

平川希は背筋を伸ばす。それはまるで、男に向けて「私はあなたを恐れない」と宣言しているかのようだった。

男は両拳を固く握りしめ、歯を食いしばる。歯の隙間から絞り出すような声が漏れた。「平川希、いい度胸だ!」

平川希の身体が微かに震え、瞳の奥は氷のように冷たい。男がドアを叩きつけるように閉めて病室に入っていくのを見つめていた。

男が去って、平川希はようやく安堵の息をつくことができた。彼女の額にはとっくに冷や汗がびっしりと滲んでいた。

この男は恐ろしすぎる。平川希は、この先一生彼とは一切関わりを持ちたくないと願った。

そう思いながら、平川希は身を翻して立ち去ろうとしたが、二歩も歩かないうちに、彼の傍らにいたアシスタントの古谷匡史が連れたボディガードに行く手を阻まれた。「平川さん、先生はまだお帰りになっていいとはおっしゃっていません」

平川希は深く息を吸い込み、ようやく胸の内の怒りを鎮めると、静かに古谷匡史を見据えた。

古谷匡史はごくりと唾を飲み込んだ。この奥様は以前とどこか違うようだ。その眼差しは、まるで自分を生きながら八つ裂きにするかのようだ。

「古谷助手」平川希は淡々と声をかけた。

「は、はい!」

「私……!」平川希は深呼吸した。「トイレに行く!」

「……」古谷匡史は一瞬呆気に取られたが、すぐさま後ろのボディガードに言った。「平川さんをトイレまで護送しろ」

「……」平川希は危うく息が止まりそうになった。「護送?」

「はい、護送です」古谷匡史は真顔で答えた。

はっきり言えば、これは監視だ!

平川希は奥歯をギリリと噛み締め、彼に親指を立てて見せた。「古谷匡史、やるじゃない!」

平川希は憤然とトイレに入り、どこか力なくドアに寄りかかった。後ろには二人のボディガードが尻尾のようについてきており、逃げ出す機会など全くない。

こんなに時間が経ってしまった。二人の可愛い子供たちがどうしているのか、まだわからない。

平川希が途方に暮れていた、その時……。

「ママ」甘い声が、平川希の耳元で小さく響いた。

平川希の心臓がどきりと跳ねる。「由佳?」

「ママ!」由佳がトイレの個室から駆け出し、平川希の腕の中に飛び込んできた。

平川希は信じられない思いで自分の娘を抱きしめる。心は歓喜に沸き立つ一方で、不安も募った。「由佳、飛行機に乗らなかったの? どうしてここがわかったの?」

「お兄ちゃんが由佳を連れてきてくれたのよ。ママ、忘れちゃった? お兄ちゃんがママと由佳が迷子にならないようにって、くれた腕時計にGPSがついてるじゃない」由佳は手を上げ、手首につけたピンクの腕時計を振って見せた。

「GPSを頼りにクソオヤジの家を見つけたの。元々お兄ちゃんがどうやってママを助けようか考えてたら、GPSがママと一緒に病院に移動したから、私たちも来たのよ」

平川希は自分の手首の腕時計を見た。以前、あの子につけてと言われてから、ずっと外していなかった。まさかこんなに役立つとは。

「由佳、お兄ちゃんは?」

「お兄ちゃんは外にいるわ。ママ、安心して。ママを助ける方法を考えてるから。そうだママ、お兄ちゃんが言ってたけど、ママがずっと連絡してこないのは、きっとスマホを取り上げられちゃったからだって。これ、ママのスマホ。ちゃんと隠しておいてね」

平川希は感動で死にそうだった。この一対の子供たちは、まさに彼女にとっての偉大な救世主だ。スマホがあればずっと便利になる。平川希はスマホを受け取ると、すぐに隠した。

「ありがとう、宝物たち。由佳とお兄ちゃんは本当にママの救世主よ。ママは自分で逃げる方法があるから、あなたたちがここにいるのは危険すぎるわ。先におばちゃんのところに戻ってくれる? ママは後で合流するから」

高原賢治はこの階にいる。もし彼に凌太を見られたら終わりだ。彼はきっと子供たちを奪っていくだろう。高原家が自分たちの血筋を外に流出させておくはずがない。

だが、凌太と由佳はどちらも彼女の命だ。彼らを失うことなどできない。彼らを危険な目に遭わせるわけにはいかない。

「でもママ……」

入口に足音が近づいてくる。平川希は由佳の小さな口を覆い、人差し指を唇の前に立てて、シーッと黙るように合図した。警戒しながら由佳を連れて個室に入る。

「ママ?」

「しーっ!」

平川希は声を潜めた。「由佳、ママの言うことを聞いて。お兄ちゃんと一緒にここを離れるの。ママに少し時間をちょうだい。ママは必ず自分で何とかしてあなたたちと合流するから。いい?」

「由佳、ママが心配」

平川希は娘を腕に抱いた。「由佳はママを信じて」

平川希は娘を抱きしめてしばらく慰め、名残惜しそうに由佳に先に外に出て凌太と合流するよう促した。

由佳はとても聞き分けが良かった。とても名残惜しそうで、平川希のことが心配でたまらない様子だったが、それでも小さな足で駆け出していった。

平川希は由佳の小さな後ろ姿を、胸を締め付けられる思いと安堵の気持ちで見送った。

それから平川希は、何事もなかったかのようにトイレから出てきた。由佳と凌太が無事だとわかって、平川希はずっと安心した。心配で塞ぎ込んでいた気分も晴れ、足取りもずいぶん軽やかになった。

平川希は二人のボディガードを見ても、ずいぶん好ましく思えたほどで、にこやかに言った。「さあ、行きましょう。私を護送して頂戴」

二人のボディガードは顔を見合わせた。「?」

この女は大丈夫か? 入る前は刀でも持って俺たちを殺しかねない勢いだったのに、トイレに行っただけで機嫌が良くなったのか?

女心と秋の空、だ!

平川希は軽快な足取りで廊下を戻りながら、口では小唄までハミングしている。

突然……。

「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」

この声……。

平川希は全身が凍りついた!

全身の血が逆流するのを感じた!

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