第6章
新谷音羽が口を開くより早く、背後から甲高くて聞き覚えのある女の声が飛んできた。
「音羽さん? 偶然ね。こんなところで飲んでるの?」
浅田美晴が林翔太の腕に絡みつき、優雅に歩いてくる。視線は音羽の向かいに座る蒼井沢言へ――そこに一瞬だけ嫉妬が走り、すぐさま嘲りに塗り替わった。
「翔太に楯突けた理由、わかった。もう次の男、見つけたんだ」
林翔太の顔は、今にも黒い水でも滴りそうなほど陰った。
美晴の視線を追う。薄暗い灯りの中、白いシャツの男の輪郭だけが浮かぶ。背は高く、姿勢もいい。雰囲気も悪くない。けれど肝心の顔はぼやけて見えた。
――音羽が、俺を苛つかせるために連れてきた適当な男。
そう決めつけた。
この数日、林翔太は初めて「制御不能」を味わっていた。新谷音羽が、まるで蒸発したみたいに消えたのだ。電話は出ない、メッセージも返さない。人を使って、彼女が行きそうな場所を片っ端から探させても見つからない。
苛立ちを紛らわすため、美晴を連れて飲みに来た。まさか、ここで鉢合わせるとは思いもしなかった。
無事な姿を見て、胸の奥がふっと緩む。だが、向かいの男を見た瞬間、腹の底から火が噴き上がった。
一方の新谷音羽は、さっき蒼井沢言に突きつけられた言葉の衝撃から抜け出せず、頭の中が真っ白のままだった。浅田美晴が何を言っているのかも入ってこない。ただ、ぼんやりとテーブルを見つめている。
その魂の抜けた顔が、林翔太には「駆け引きに失敗して、かわいそうぶる姿」に見えた。
「音羽、まだやる気か?」
苛立ちを隠しもせず、林翔太がずかずかと近づく。蒼井沢言の存在など視界に入っていないと言わんばかりに、音羽の手首を掴もうと手を伸ばした。
「帰るぞ。これ以上、恥さらすな」
触れる前に、より強い手が空中で林翔太の手首を掴んだ。
ぎりっ。
骨が潰れそうな痛みが走り、林翔太の顔色がさっと抜ける。反射的に見上げて――そこでようやく、男の顔をはっきり捉えた。
冷たい輪郭。鋭い眉眼。沈んだ瞳に宿る、背筋を凍らせる圧。
「そ……蒼井社長……?」
声が震え、背中に冷や汗が滲む。
どうしてここに。しかも、新谷音羽と一緒に。
蒼井沢言は林翔太を一瞥することすらなく、視線は音羽の白い顔に留まったままだった。手を離す動作は、埃を払うように淡泊。
彼は紙ナプキンを一枚取り、先ほど触れた指先をゆっくり拭うと、少し離れたゴミ箱へ正確に投げ入れた。
林翔太の血の気が引く。信じられない、という目で蒼井沢言と、茫然とした音羽を交互に見る。
「蒼井社長……彼女は俺の彼女で……連れて帰ろうと……」
「元カノです」
新谷音羽がようやく我に返り、林翔太の目を見て、はっきりと言い直した。
蒼井沢言はその返答に満足したのか、口元がほんの僅かに緩む。腕に掛けていたジャケットを音羽の肩へかけ、薄い服ごと包み込んだ。動きは自然で、妙に親密だった。
「林グループの林翔太か」
蒼井沢言が初めて視線を向ける。声は平坦なのに、上から押し潰すような威圧だけが絶対だ。
「君の父親は先週、城南エリアのプロジェクト協業を泣きついていたな」
林翔太の膝が、がくりと揺れた。
城南エリアは、林グループの今年後半の命綱だ。ここを失えば、会社が傾く。父がどれだけ頭を下げて蒼井グループに食い込もうとしたか――自分が一番よく知っている。
「蒼井社長、邪魔するつもりは……」
震える声で頭を下げながら、心の底では音羽への侮蔑が渦を巻いた。
だからか。だから別れられたのか。蒼井沢言に取り入ったから――。
浅田美晴も青ざめ、林翔太の背に隠れて息を殺している。首にかけた粗悪な模造品のネックレスが、音羽の肩の高級ジャケットと並んで惨めに見えた。
蒼井沢言の目は冷え切っている。
「連れて行け。消えろ」
「は、はい!」
林翔太は救われたように美晴を引きずり、転げるように店を出た。
二人の背中が見えなくなるのを見届けて、新谷音羽は笑いそうになった。昔のあの二人は、こんな顔をしていなかったのに。
――全部、夢みたいに速かった。
音羽が口を開きかけた、そのとき。
ぶぶっ。
蒼井沢言のスマホが震えた。彼は眉を寄せ、通話を取る。
「言え」
向こうは相当切迫しているのか、聞いているうちに彼の顔が少し沈む。
新谷音羽は黙って座っていた。肩に残るジャケットの体温と、ふっと鼻先を掠める沈香の香り。胸の中が、言葉にできないもので満ちていく。
数秒後、蒼井沢言は通話を切り、淡々と告げた。
「会社で緊急の用だ。今すぐ行く」
立ち上がり、音羽を見下ろす。深い視線。
「物件の鍵とカードキーは書類袋に入っている。今夜はそこに泊まれ」
少し間を置いて、付け足す。
「明日の午前10時、家で待て」
それだけ言うと、彼は迷いなく踵を返した。長い脚で歩み去り、背の高い影はすぐに店の入口の向こうへ消える。
新谷音羽は一人、席に残った。
テーブルの上には書類袋と、桁外れの値段のネックレスが収まったベルベットケース。
頭の中が泥濘のようになって、まともに思考が働かない。
首元のネックレスにそっと触れる。ひやりとした感触が、否応なく現実を突きつけた。
――自分の人生は今日から、予測不能な方向へ舵を切ってしまったのだ。
