第4章
「どうしたの? 大丈夫……よね」
青山光は青山雅紀が浴室で何かあったのかと、慌ててドアを押し開けた。
目に飛び込んできたのは、男のたくましい胸板。水滴がその胸を滑り落ちていく。
ちらりと見える八つに割れた腹筋が、青山光の目にまざまざと映った。
彼女は思わずごくりと唾を飲み込む。なんという美男子の湯上がり図だろうか。
青山雅紀は、このとき腰にバスタオルを一枚巻いているだけだった。
先ほど服を取ろうとした際、誤って洗面台の上の物を手で払ってしまい、大きな音を立ててしまったのだ。
椅子に座り、それを拾おうと屈んだところで、青山光が入ってきた。
全身がバスタオル一枚でしか覆われていないことを思い、青山雅紀は冷たく叱りつけた。「出ていけ」
自分の体にまとわりつくような青山光の視線にも、当然気づいていた。
その眼差しは青山雅紀をひどく不快にさせた。
ただ……
すぐに、青山光の眼差しに変化が生じたことに青山雅紀は気づいた。
青山光が青山雅紀の体にあるおぞましい傷跡をまじまじと見たのは、これが初めてだった。
前の人生では嫌悪感から、まともに注意を払うことすらなかった。
いや、本当は気づいていた。
あの時、青山光はこの傷跡を鋭い刃に変え、青山雅紀を容赦なく突き刺したのだ。
それ以来、青山雅紀は彼女の前で自分の体を晒そうとはしなくなった。
今、この満身創痍の体と再び向き合い、青山光はただ胸が締め付けられるような痛みを感じた。
青山雅紀の体には、かさぶたになったばかりの新しい傷もあることに気づいた。
青山光は視線を外し、振り返って部屋を出て行った。
青山光の後ろ姿を見つめ、青山雅紀の唇の端が嘲るように歪む。
このまま行ってしまった。
自分の体の傷跡に怯えたのだろう。
面倒を見るなどと言っておきながら、所詮その程度か。
深淵な瞳に、一筋の奇妙な感情がよぎる。
青山雅紀が視線を戻し、ズボンを穿き終えたところで、青山光が軟膏を手に戻ってきた。
「薬、塗ってあげる」青山光は彼の正面に歩み寄った。
長く家に籠っていたせいか、青山雅紀の肌は冷たいほどに白い。その肌色が、傷跡を一層際立たせていた。
青山雅紀が断ろうとした瞬間、肌にひんやりとした感触が伝わった。
青山光は彼の前にしゃがみ込み、細心の注意を払って薬を塗っていく。
彼女の指先は微かに冷たく、青山雅紀の熱を帯びた肌に触れると、彼の神経を再び張り詰めさせた。
青山光はそっとため息をついた。「あなたがこんな傷跡を気にしてないのは知ってる。でも、もうこんな風に自分を痛めつけないで」
男の体にある新しい傷の多くは、青山雅紀自身がつけた擦り傷だった。
自分の体の傷を見るたび、青山雅紀は自分がもう障害者であるという事実を思い知らされる。
手加減を知らず、気にも留めず、薬を塗ろうなどとは考えもしなかった。
青山光はそれを見て胸を痛めていた。
彼女は優しい手つきで、俯いたまま言葉を続ける。「青山雅紀、痛い?」
そう言うと、青山光は薬を塗った傷口にそっと息を吹きかけた。「ふーってすれば、痛いの飛んでいくから」
言葉の最後は、泣き声が混じっていた。
青山雅紀は唇を固く結び、青山光の振る舞いを冷ややかに見つめる。その表情は複雑で、読み取ることができない。
青山光とは、一体何者なのだ?
会ったのは初めてのはずなのに、彼女の自分に対する過剰なまでの気遣いは、青山雅紀を疑心暗鬼にさせるには十分だった。
自分は所謂一目惚れなど信じない。
青山光をそばに置いたのも、彼女が一体何を企んでいるのかを見極めるためでしかなかった。
だが、今は……
目の前の女の痛ましげな表情は、演技には見えない。
彼女の演技力があまりに巧みで、自分をまんまと騙しているのか。それとも、心からの気遣いなのか。
青山雅紀は、今の自分には少し見分けがつかないと認めざるを得なかった。
「光」青山雅紀は彼女の名前を呼んだ。
その声に、青山光は顔を上げる。「ここにいるわ」
ただそれだけの言葉が、青山雅紀の心を微かに揺さぶった。
青山雅紀は咳払いをする。「俺を怖がらないのは、なぜだ?」
世間では、自分が気まぐれで、癇癪持ちだと噂されているはずだ。足が不自由になったせいで精神が歪み、人をいたぶる悪趣味があるとまで言う者もいる。
青山光がこれらの噂を知らないはずがないと、彼は思っていた。
青山光は最初、青山雅紀の言葉の意味が分からなかった。
彼女は目の前の男を不思議そうに見つめる。
脳裏に、世間の青山雅紀に対する評価が突如として蘇った。
青山光は気にしないといった風に微笑む。「どうしてあなたを怖がる必要があるの? もうあなたに嫁いだんだから、私たちは家族よ。外の噂なんて信じない。私が信じるのは、この目で見たあなただけ」
少なくとも、先ほどは、青山雅紀は自分を追い出さなかった。
彼は氷のように冷たく見えるけれど、実際には自分に残るか去るかの選択肢を与えてくれた。
「私はあなたの奥さんよ。夫婦は一心同体。あなたを放っておいたりしない。信じて」青山光はこの機に自分の想いを伝えた。
青山雅紀は彼女の言葉を聞いても、表情は依然として変わらない。
内心、心を動かされなかったと言えば嘘になる。
それでも、青山雅紀は軽々しく青山光の言葉を信じる気にはなれなかった。
彼は暗闇の中で気ままに生きることに慣れてしまった。一筋の光など必要ない。
光は差し込まず、温もりも感じられない。それでも彼は、暗闇の中で独りきりでいられるのだ。
青山光は、青山雅紀が今、心の中で何を考えているのか知る由もなかった。
彼女はそう言うと、再び俯き、優しい手つきで薬を塗り続けた。
しばらくして、青山光は小声で「終わったわ」と告げた。
そばにあった服を手に取り、青山光は青山雅紀に着せていく。
青山雅紀は、自分のボタンを留めていくその華奢な手を冷ややかに見つめ、やがて視線を逸らした。
青山雅紀の服を整え終えると、青山光は彼をレストランへと押していった。
彼女は青山雅紀がいつも静かなことを知っており、彼のそばでおとなしく座って付き添った。
食事が終わると、中島さんが水と数本の薬瓶を盆に乗せて近づき、促した。「若旦那様、お薬の時間です」
青山雅紀は頷いた。
「どうしてこんなにたくさんの薬を?」青山光は、青山雅紀の手のひらに溢れる色とりどりの錠剤を見て、眉をひそめ不思議そうに尋ねた。
もしかして、青山雅紀の両脚と関係があるのだろうか?
中島さんが傍らで答える。「奥様、痛み止めと、血行を良くするお薬でございます」
青山雅紀の両脚は、長く車椅子に座っているせいで血の巡りが悪く、薬で抑えるだけでなく、長期的なマッサージで血流を促す必要があった。
その中には、気血を補うための丸薬もいくつか含まれている。
青山光もそのことに思い至っていた。
彼女は、青山雅紀が顔色一つ変えずにその一握りの薬を飲み下すのを見つめ、彼に言った。「後で、脚をマッサージしてあげる」
青山雅紀は即座に拒絶した。「いらん。中島さん、書斎へ押してくれ」
その様子を見て、青山光は慌てて制した。「中島さん、私がやりますから、あなたは自分の仕事に戻って」
彼女の言葉に、青山雅紀の視線が注がれた。
青山雅紀の眼差しには探るような色があり、心に奇妙な感覚がよぎる。なぜか、青山光が自分を書斎へ連れて帰るとは信じられなかった。
案の定。
中島さんを下がらせた後、青山光は青山雅紀を二階へ押していくことはなかった。
むしろ、反対方向へ向かって歩き出す。「あなた、外をお散歩しましょう」
「光、戻れ」青山雅紀の声には、すでに怒気が含まれていた。
彼は青山光の独断専行に腹を立てていた。
青山光は首を振って拒む。「ちょうど私もここの環境に慣れたいし。悪いけど、あなたに付き合ってもらうわね」
青山雅紀の口元がひきつった。
今、彼は青山光をそばに置いたことをひどく後悔していた。
今から彼女を追い出しても、まだ間に合うだろうか???

















