第1章
春嵐団地――戸建ての別荘の前。
黄色いタクシーが路肩に停まっていた。
運転手はハンドルを指でとん、とん、と叩き、バックミラーをちらりと覗く。後部座席には、サングラスをかけた女が黙って座っていた。
手のひらほどの小さな顔は、サングラスに半分隠れている。覗くのは、整った鼻梁と、触れたら壊れそうな白い肌。ぷるりと艶のある唇。
「お嬢さん、これ以上ここで待たれると、こっちは今日の稼ぎがゼロになっちまいますよ」
二ノ宮原子はゆっくり顔を向け、サングラス越しに運転手の視線を受け止めた。口角がほんのわずか上がる。
「ごめんなさい。もう少しだけ待って。……あとでまた戻るから、送ってくれる? 料金は倍、払う」
運転手の顔がぱっと明るくなる。
「いいですよ! じゃ、早く行って早く戻ってきてください!」
そう言いながら、運転手は横の別荘を盗み見た。こんな場所に住めるなんて、さぞ快適だろう。静かで、環境もいい。近所付き合いの煩わしさもない。
確かここは、この市の財団委員会の議員の別荘だったはずだ。名前は……思い出せない。さっき入っていったあの嬢ちゃん、まさか議員の娘か?
顔立ちも所作も、それっぽい。――ただ妙なのは、さっき「市内最大の精神病院」から乗ってきたことだ。
二ノ宮家の彫刻入りの大きな鉄門が、ぎい……とゆっくり開いた。
てっきり一悶着あると思っていたのに、昔登録した指紋が、今でも生きている。
三年前――二ノ宮家にいた自分の痕跡は、きれいさっぱり消されているものだと、原子は思っていた。
広大な庭の迷路を、左、右……。十分ほど歩いたところで、二ノ宮原子は赤いレンガの一枚の前で立ち止まり、しゃがみ込む。
両手で土を掘り返した。
――小さい頃から、自分が二ノ宮家の実の娘ではないことは知っていた。
それでも、拾って育ててもらえたことを幸運だと思っていた。
自分が「本物の娘」である二ノ宮薫子――三年前にはすでに名の知れた映像スターになっていた――の厄除けの身代わりとして迎えられたのだと知ったときでさえ、折れなかった。
ひたすら分をわきまえた。薫子の小間使いとして、汚れ仕事も面倒も、全部引き受けた。そうすれば、二ノ宮のお父さんとお母さんに愛される資格を得られると信じていた。
――妄想だった。
掘り当てた。
土を払いのけると、埋め込まれた赤い小箱が姿を現す。
二ノ宮家で十八年。あちこちでバイトを掛け持ちして貯めた、ささやかな蓄え。
薫子は幼い頃から、何かにつけて原子を押さえつけた。
綺麗でいることを許さず、金を持つことも許さず、汚く醜いアヒルの子でいろ、と。
夏はミルクティーの買い出し、席取り。冬は熱湯汲み、授業の出席代行。早起きして、夜遅くまで働き続けて――ようやく掴んだ、小さな財産。
箱の中身を服の内側に押し込み、二ノ宮原子はゆっくり顔を上げた。
遠くにそびえる、古城めいた別荘。
静かで、それでいて狂ったような瞳に、ようやく波紋が揺れる。
唇だけが動いた。
「二ノ宮家……三年ぶり。戻ってきた。復讐を選んだなら――まずは、先に大きなお土産を贈ってあげる」
二ノ宮原子が去ってほどなくして、二ノ宮家の三人は別荘に戻ってきた。
旅行からの帰宅だ。掃除は事前に業者を入れている。
林原涼子と二ノ宮薫子が先に降り、屋内に入って灯りをつける。
薫子が大きく伸びをした。
「はぁ~。パパ、ママ、私もう疲れた。明日も買い物だし、先に寝るね」
「ええ。夜はちゃんと掛け布団かけなさいね」
薫子は涼子に甘えた声を出しながら階段を上り、自室の扉を開けた。
……あまりに綺麗すぎて、立ち尽くす。
掃除が行き届いている、なんて言葉では足りない。
「……私の、もの……?」
胸が早鐘を打つ。
普段、アクセサリーや小金庫を入れている引き出しを片っ端から開けた。――空。何もない。
ベッドサイドの金庫も開ける。――空。
血の気が引いた。薫子はその場にへたり込み、頭を抱え、甲高く叫んだ。
階下の涼子と二ノ宮正樹が、悲鳴を聞いて駆け上がる。
「どうしたの、宝物?」
「パパ! ママ! 部屋に置いてた宝物が全部ないの! 私のジュエリーもお金も、全部消えた!」
二人の胸が、どくんと沈む。
次の瞬間、さらに目立つ悲鳴が別の部屋から響いた。
――夫婦の寝室だ。
薫子が慌てて飛び込み、ソファすら消えている部屋を見て、ふらりと後ずさる。
「……こ、これ……幽霊?」
涼子が指を唇に当てた。
「変なこと言わないで。監視カメラがあるでしょ。映像を見ましょう。清掃員が盗ったに決まってる!」
三人は監視室へ走り込んだ。
そこで起きていたのは、さらに不気味な現実だった。
どの映像にも、不審者は映らない。
別荘周辺に誰も来ていない。鳥一羽すら映っていない。
清掃チームは確かに来ていたが、動きはまったく正常だった。
「じゃあ、なんで私たちのものが全部なくなるのよ!」
正樹が何かを思い出したように顔色を変え、地下室へ駆ける。
巨大な金庫を開ける。
――中の現金。
――銃を数丁、保管していたはずの場所。
何もない。
正樹は膝が砕け、壁にもたれたまま、ずるりと滑り落ちた。
両手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。
「俺の……俺の金……半生の蓄えが全部……! どこの畜生がやりやがった!」
薫子と涼子が追いつき、覗き込む。
そのとき薫子が、金庫の隅に残されていた薄い小冊子に気づいた。
「……なに、これ?」
その声に反応して正樹が顔を上げ、帳簿を見た瞬間――頭の中で爆ぜた。
「……ッ!」
ひったくるように帳簿を奪い取り、そこに並ぶ数字を追う。
子どもでも分かるほど露骨な粉飾の記録。
顔色が、闇のように沈む。
目の奥の凶悪さと毒が、隠しきれなくなっていく。
拳をぎり、と握りしめた。
「……生かしておけない。これを見た人間は、絶対にこの世に残せない。早く見つけるぞ。見つけられなければ――次に消えるのは、二ノ宮財団そのものだ」
涼子の顔が引きつる。
「な、なに……それ……見られたら、そんなに……?」
「馬鹿が!」
正樹が怒鳴った。
「これが外に出たら、俺は警察に直行だ! 一生出られねえんだぞ、わかってんのか!」
涼子は震え、言葉が詰まる。
「じゃ、じゃあ早く人を――別荘中、全部ひっくり返して……! その人、まだ中にいるかもしれない!」
涼子の声は、途切れ途切れの電波となって、二ノ宮原子のイヤホンに届いていた。
その頃の原子は、狭く暗い地下室にいた。
目の前には小型の受信機。隣には青く光るモニター――別荘内部が映し出されている。
二ノ宮原子は冷えた笑みを浮かべ、熱い鉄板の上の蟻みたいに慌てふためく三人を眺めた。
地下室の壁際には、金銀の山。
宝飾品、現金――ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
そう。二ノ宮家の「価値のあるもの」は、全部ここにある。
そしてこの地下室の存在を知っているのは――原子だけだった。
正樹が警察を呼んだところで、辿り着けるのはこの別荘まで。外に流通した形跡は一切ない。
これが、二ノ宮家三人に贈る――大きなお土産。
二ノ宮原子はゆっくり手を上げ、奪い取った銃を愛でるように眺める。
口元に嘲りが滲んだ。
――これは復讐の、ほんの始まり。
二ノ宮正樹、二ノ宮薫子、林原涼子。
三人は彼女を精神病院に放り込み、三年を奪った。苦しみも、屈辱も、全部味わわせた。
だからこそ、彼女は成長した。
これからは――彼女の遊び時間だ。
