第3章
防空サイレンが鳴り響いても、木の下の二ノ宮原子は微動だにしなかった。
その合図と同時に、病棟のあちこちに散っていた病衣の連中が、狂ったように走り出す。捕まれば、管理側に容赦なく殴られる。
二ノ宮原子が殴られたのは、ほんの数回だけ。
回想に沈んでいた彼女は、ふと顔を上げた。遠い空に、黒い点が――だんだん大きくなっていく。
ヘリコプター?
精神病院に?
あり得るのか。
ローター音が近づくにつれ、院内の空気が一気に張り詰めた。やがてヘリが降り立つと、病院の「上」の人間が一斉に外へ出ていく。
――本当の意味での管理側。患者ではない。彼女のような統合失調症の収容者とも違う。
「薄原様! 本日はご光臨いただき、まことに光栄でございます!」
院長が脂汗をぬぐいながら、媚びた笑みで手を差し出す。だが薄原川人は視線すら寄こさない。伸びたままの手が行き場を失い、院長は気まずそうに引っ込めた。
白い肌に黒髪。前髪が無造作に目元へ落ち、鋭い瞳の切っ先を半分隠している。
輪郭は、神が精巧に彫り上げた彫刻のよう。英気と優雅さが同居していた。
薄原川人。A市で知らぬ者はいない。
世界屈指の財団CSAの首席執行官。瞬きひとつせず、桁違いの金を動かす男。
二十五にも満たない年で、世界経済の心臓を掴んだとまで言われる。
国際会議で彼の指が少し動くだけで、市場が跳ねる――そんな噂さえある。
その伝説が、なぜ精神病院へ直々に?
ただし、ここは例外だ。
この病院では、彼の名を知らない者の方が多い。
二ノ宮原子も、何気なく一度見ただけだった。
なのに薄原川人は取り巻きを引き連れ、一直線にこちらへ歩いてくる。
原子の、指を噛む癖が、ぴたりと止まった。
……何の冗談だ。
薄原川人は彼女の前で立ち止まり、災厄めいた笑みを口元に浮かべる。
そして手を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。
「これは?」
院長が慌ててハンカチを取り出し、額の汗を拭う。
「薄原様、こちらは当院の患者でして……統合失調症に被害妄想、さらに他害傾向もございます。ただ普段は静かで、木の下でキノコみたいにしゃがんでいるだけで……三年前に収容され、身寄りも友人もおりません」
助理の林原淳が咳払いし、声を落とす。
「名前は」
「に……二ノ宮原子でございます」
「二ノ宮原子」
薄情そうな唇が、その名前をゆっくり転がす。目の奥に、かすかな興味が灯った。
――この女の目は、やけに澄んでいる。
そして、似ている。
「こいつにする。連れて帰る前に洗え。汚れは一切残すな」
薄原川人はウェットティッシュで手を拭き、動作の一つ一つに露骨な嫌悪を滲ませた。
林原淳が合図する。
ぱち、ぱち、と軽く手を打つと、うつむいたメイド服の女たちが三、四人現れ、二ノ宮原子を両脇から抱えるようにして院内へ連れていった。
三十分後。
原子が戻ってきたとき、着せられていたのは病衣だった。
薄原川人の眉がわずかに寄る。
院長が顔色を変えて弁解した。
「当院には女性用の服が他になく……どうか、ひとまずこちらで」
活きた閻魔に逆らえるわけがない。ほかに服があれば、差し出さないはずがない。
腰まで届く髪がさらりと肩に落ちる。表情は呆けているのに、世間知らずの純真さだけが妙に残っていて――薄原川人は渋々、許容した。
「連れて行け」
一行が動き出す。
誰も気づかなかった。
その一瞬、二ノ宮原子の目の奥に、黒い光が走ったことを。
――出る口実が欲しかったのに。向こうから外へ出してくれるの?
どこへ連れていかれようが、外に出られるなら逃げられる。
だが原子は知らなかった。
この先が、自分の想定とは別方向に転がり落ちていくことを。
梅苑。
到着した途端、五、六人の使用人に囲まれ、全身を磨かれ、髪を整えられ、衣装係やヘアメイクまで動員された。
体型、肌、髪――あらゆるデータが記録されていく。
――持ち上げられるって、こういう感覚か。
それでも原子の表情は最後まで鈍いまま。
今の自分は「患者」だ。余計な反応はできない。
カチャリ。
扉が開く音。使用人たちが一斉に手を止める。
「薄原さん、お帰りなさいませ」
林原淳が手で退がらせ、扉を静かに閉めた。
薄原川人は部屋着に着替え、広い茶色のソファに沈み込む。指先まで整った手で、眉間をゆっくり揉んでいた。
「こっちに来い」
原子が反応するより早く、強い力で引き寄せられ、ソファへ落とされる。彼の隣。
薄原川人は目を細め、上から下までじっと観察した。
「……忘れてた。お前はただの馬鹿だ。馬鹿が少し似てるだけでも、幸運だと思え」
優雅な低音で吐かれる言葉が、それ。
殴りたくなる。
だが原子は笑わない。睨まない。
騙していると気づかれたら、面倒どころじゃ済まない。
彼の言う「彼女」って誰だ。
愛人? それとも――。
薄原川人はしばらく見つめ、体を前に傾ける。
顎が彼女の首筋へ落ち、温い息が白い肌をくすぐった。むず痒い。
原子が首をすくめた瞬間、腰に回った大きな手が乱暴に引き寄せる。
隙間が消えた。
薄原川人が深く息を吸い、感慨のように呟く。
「……柔らかい。十年以上だ。やっとまた抱けた。冷たくない。……よかった」
近すぎる。
初めての距離感に、原子は全身が落ち着かない。心臓が暴れる。だが必死に抑えた。
突然、薄原川人が彼女のうなじを掴み、脅すように覗き込む。
「お前の唾を飲む音が、邪魔だ」
――殺せば?
喉まで出かけて、飲み込んだ。
次の瞬間、原子は抱き上げられ、二メートルはありそうなベッドへ投げられた。
ふわん、と身体が沈む。
硬いベッドしか知らない。
この柔らかさは、反則だ。
……二ノ宮家の連中も、こんなベッドでぬくぬく生きてたのか。
なら、贈り物はまだ足りない。
暗いものが目をよぎった、その直後。
広い身体が覆いかぶさってきた。
原子は反射的に両手で彼の胸を押す。近すぎて息が詰まる。
「……っ」
その小さな声に、薄原川人の目がわずかに揺れた。
興味深そうに、闇が深まっていく。
