第5章
二ノ宮原子はゆっくりと目を上げ、警備員の丁寧な視線を真正面から受け止めた。
警備員はわずかに目を見張る。――なんて綺麗な子だ。テレビの中の磁器人形みたいで、守ってやりたくなる。きついことなんて、とても言えない。
「……違う」
「でしたら、恐れ入りますが受付で来訪の登録をお願いできますか? 本原ビルへは、どのようなご用件で?」
「人を探してる」
警備員はフロントの来訪簿を引っ張ってきて、記入ページを開いた。
「ご年齢と、お名前を――」
返事がない。警備員は顔を上げ、慌てて付け足す。
「お嬢さん、こちらはビルの安全管理のためです。どうかご協力を――」
二ノ宮原子は無駄話に付き合う気はなかった。壁の時計を一瞥する。夕方が迫っている。
「本原修に会う。伝えて。『狂人が来た』って」
警備員のペン先が、ぴたりと止まった。目を丸くし、二ノ宮原子を凝視する。口が少し開いたまま、明らかに面食らっている。
だが数秒も経たないうちに、眉をぐっと吊り上げ、手にしていた来訪簿を背後の同僚へ乱暴に放り投げた。
「お嬢さん。こっちは冗談で相手してるんじゃありません。協力していただけないなら、今すぐ外へ出ていただきます!」
二ノ宮原子は一歩、距離を取った。筋肉の塊みたいな男。警戒の目で測る。
――でも、勝てる。
距離を空けた瞬間に、相手の間合いと自分の勝ち筋が頭の中で組み上がる。結論は明快だった。自分のほうが上。
胸の奥の警戒が、すっと一段落ちる。
「目的は言った。あなたは何もしない。なのに私が悪い? それが仕事?」
警備員は鼻で笑った。厄介な相手に当たった、とでも言いたげな顔。綺麗な顔なのに、頭のほうが――という軽蔑が、そのまま目に浮いている。
「嬢ちゃんさ。本原修、本原様はうちのオーナーだ。俺たちだって勝手に会えねえんだよ。予約もなし、見たこともない小娘を、社長が会うわけないだろ」
そこへ、制服の着こなしがいっそうきちんとした男が歩いてくる。警備責任者だ。濃い眉が目元にかかり、低い声で尋ねた。
「どうした」
「隊長、この子が会長に会うって――」
隊長は二ノ宮原子を一瞥しただけで、足を止めもしない。
「追い出せ。こんな件で時間を使うな。次からは手早く処理しろ」
隊長が去ると、警備員は露骨に苛立った顔で二ノ宮原子を睨みつけた。
「ほら、さっさと出てけ。仕事の邪魔だ!」
そう言って乱暴に押してくる。だが二ノ宮原子は身をひねり、すっと躱した。
警備員の顔が歪む。今度は両手で掴みにきた。周囲の警備員もわらわらと寄ってくる。
気づけば四方を塞がれ、逃げ道が消える。
ざわ……とロビーの空気が変わった。人が集まり、スマホを構える。撮影と囁き声が、波みたいに広がっていく。
そのとき。
本原ビルの外に、黒塗りのベントレーが滑り込むように停まった。
ドアが開き、手縫いの高級革靴が地面を踏む。そこから伸びる、長く引き締まった脚。
本原修が姿を現した。
背は高く、立ち姿は絵のように整っている。童話に出てくる王子様――そんな比喩が、冗談に聞こえないほどだった。
助理が素早くドアを閉め、彼の半歩後ろにつきながら午前の予定を手元で整える。
回転扉を抜けた本原修は、ロビーで足を止めた。少し離れた場所にできた人だかりを、じっと見据える。
助理は一瞬固まる。――いつの間に、こんなに人が。
本原修の眉がわずかに寄っているのを見て、背筋が冷えた。機嫌がいいはずがない。
助理は慌てて前へ出て、人々を散らしにかかる。
だがその中心では、警備員たちが二ノ宮原子を取り囲んだまま膠着していた。さっき一度やり合っている。人数がいても、勝てない。全員がそれを痛感していた。
柔らかそうな見た目に反して、厄介すぎる相手。
円を描くように回り込み、隙を探して――
背後から、低い声が落ちた。
「……何をしている」
警備員たちが一斉に背筋を伸ばし、直立し、敬礼する。
「本原様! こちらの女性を退去させようとしております。予約もなく面会を求め、社長室へ押し入るつもりでしたので!」
本原修は、警備員の向こう側――半分だけ隠れた二ノ宮原子へ視線を送った。
見えたのは、わずかな輪郭だけ。
それだけで、本原修の表情が凍る。
そして次の瞬間、普段は感情の揺れを見せない貴公子が、取り乱したように大股で近づいた。
「……二ノ宮さん?」
二ノ宮原子は臆する様子もなく肩をすくめる。
「外に出たら、ふと思い出した。あなたって人がいたなって。ちょっと頼みがあって来たのに、部下にここで止められた」
本原修は一言も言い返さず、警備員を見た。羽より軽い声音で、切り捨てる。
「君は明日から来なくていい」
警備員が意味を理解する前に、本原修は二ノ宮原子の腕を取って歩き出し、社長専用エレベーターへ乗り込んだ。
ロビーに残された人間は、呆然とするしかなかった。
本原修のそばに女の影など、誰も見たことがない。そのせいで社内では、性欲がないだの、女に興味がないだの――勝手な噂が飛び交っていた。
それが今、自分から女を招き入れた。
あの女はいったい、何者だ――。
最上階、社長室。
扉が開いた瞬間、ワンフロアの広大な空間が広がった。高級な壁紙。ところどころに浮き彫り。空間を贅沢に使うように飾られた、外では手に入らない絵画。
古典と奢侈の匂いが、薄く漂っている。
二ノ宮原子の視線が、わずかに動いた。
金持ちなのは知っていた。だが、ここまでとは思わなかった。
二人の出会いは三年前に遡る。
二ノ宮原子が精神病院に入ったばかりの頃、周囲は彼女を嫌った。だが、殴り返されるのが怖くて、誰も決定打を出せなかった。
二ノ宮家にいた頃、彼女は偶然ボクシングに触れている。
金のために、地下のリングで闇試合に出たこともあった。
