第6章
だから、同じように迷い込んできたばかりで、皆に寄ってたかって苛められている本原修を見た瞬間――二ノ宮原子は手が出た。
先頭に立っていた男を、数発で叩きのめす。顔は腫れ上がり、鼻血がだらだらと流れ、床に転がったままどうやっても起き上がれない。
それ以来、周囲の視線が変わった。
「誰でも殴れる小娘」から、「触ったら祟りが返ってくる女王」へ。
たった十分で、立場がひっくり返った。
倒されたのは、この病院で名の知れた老兵だった。国際紛争をいくつも渡り歩き、手を汚してきた――そんな噂がまことしやかに囁かれている男。
それを、あっさり数手で沈めた。
誰も理解できない。だからこそ、誰も逆らえなくなった。
助けられた本原修は、それからずっと原子の背後を離れなかった。
どこへ行っても付いてくる。庇護を求める目で。
面倒になった原子は、皆の前で言い切った。
本原修は自分のものだ、と。
触るなら喧嘩を売ったも同然だ、と。
それで誰も本原修に手を出さなくなったのに、本人だけは離れないまま――。
そんなある日。
本原修は申し訳なさそうな顔で原子の前に立ち、深く頭を下げた。
「……すみません、二ノ宮さん。俺、精神病院を出なきゃいけません。外で全部整ったら、必ず迎えに来て……あなたも連れて出ます」
そのとき原子は、特に何も言わなかった。
期待もしなかった。
精神病院は入るのも簡単じゃないが、出るのはもっと難しい。
ここにいる大半は、生きているうちに外の陽射しを拝めるだけで御の字だ。完全に出られる日なんて、夢にも見ない。
……それでも本原修は、あとで本当に迎えに来た。約束通り、原子を連れ出せる段取りまで整えて。
けれど原子は断った。
その頃にはもう、犬穴に頼らずとも、自分の力で好きに出入りできるようになっていたからだ。
思い返して、二ノ宮原子の胸にじん、と鈍いものが広がる。
二人は回廊を抜け、本原修のオフィスへ辿り着いた。
本原修が「どうぞ」と手を差し伸べる。原子が中へ入ると、赤い木の重厚な扉が、きい……とゆっくり閉じられた。
本原修は机の向こうに立ち、両手を天板に置いたまま、俯いていた顔を持ち上げる。
「二ノ宮さん……外で、またあなたに会えるなんて思っていませんでした」
原子は室内をさっと見回し、認識を改める。
金持ちなのは知っていた。だが、これは「金持ち」では片づかない。
書物でしか見たことのない品が、当たり前みたいに置かれている。
机上の鷲の置物もそうだ。確か――英国王室が、ある“名を伏せられた名誉家”へ贈ったもの。王室の危機を救った礼として。
原子は深追いしない。
ただ、本原修の家が普通じゃない。それだけを飲み込む。
原子が向かいの椅子へ腰を下ろすと、本原修が茶を淹れ、丁寧に満たして差し出した。
「中に長くいると、たまに外へ出たくなる。今回は……復讐の準備」
「復讐? 俺でよければ、力になります」
原子は首を横に振り、茶を一口含む。
「これは自分でやる。けど、代わりにやってほしいことはある」
「君のところに、外国の要人向けに警護を出す子会社があるって聞いた」
本原修は慎重に頷く。
「はい。人員は、国際的に有名な傭兵組織を退いた連中が中心です。腕は確かで、普通の案件なら問題になりません」
「……弱めのはいる?」
本原修の眉が僅かに動く。
警護なら強いほどいい――そう言いかけて、飲み込んだ。原子がそんなことを言う以上、理由がある。
すぐに手配が回り、比較的「弱め」と言える人員が集められる。
原子は淡々と頷いた。
「いい。少ししたら、二ノ宮正樹って男から連絡が入る。警護を頼んでくるはずだから、このメンツを渡して」
それから、視線を上げる。
「あと全員に、私の番号を覚えさせて。仕事を振る」
原子はスマホを取り出し、番号を口にした。
梅苑に入ってから薄原川人に渡された端末だ。逃げないように、位置情報まで仕込まれたやつ。
――もっとも、受け取った瞬間に改造してある。今は普通のスマホと変わらない。
本原修が、その場で一瞬固まった。
原子が言い直そうとした途端、彼は慌てて我に返る。
「承知しました、二ノ宮さん。必ず完遂します」
原子は屈強な男たちへ一瞥を投げ、無表情のまま頷くと、そのまま本原ビルを出た。
外はもう、暮れかけている。
空は青黒く沈み、細い月がひっそり掛かっていた。
時間は20時。
――急がないと。
原子はタクシーを拾い、運転手へ言う。
「どうやってでもいい。21時前に着いて」
運転手は時計を見て顔色を変え、「了解です!」と叫ぶみたいに返すと、アクセルを踏み抜いた。
左の細い路地へ突っ込み、店の灯りと人の列が車窓を流れていく。
その瞬間――
キィィッ……!
急ブレーキ。
フードを被った大柄な男にぶつかりかけて、車が止まった。
運転手は蒼白になり、ハンドルを握ったまま動けない。
男も男で、車の前に倒れたまま起き上がらない。
原子は時計を見る。間に合わない。
彼女は運転手の制止を振り切って降り、男へ近づいた。
「大丈夫ですか」
男が顔を上げる。
大きくて、獲物を見るみたいに凶悪な目が、原子を射抜いた。
「てめえのせいだ! 脚がやられた! 弁償しろ!」
男はおかしな角度で脚を示す。
だが、動きで分かる。感覚はある。折れていない。
――当たり屋。
原子は口元だけで冷たく笑った。
「そう。いくら欲しい?」
男は拍子抜けしたように目を瞬かせ、次の瞬間には欲に濁る。
指を五本、突き出した。
「これだけだ」
原子は少しだけ口角を上げた。
「5円?」
男の顔が真っ赤になる。
地面を蹴って立ち上がり、原子より頭ひとつ高い巨体で凄んだ。
「ふざけんな! 仲間呼んで――」
言い切る前に、原子が踏み込む。
横薙ぎの蹴りが鋭く走り、男の身体がぐらりと崩れて――どさっ、と路面に叩きつけられた。
原子は同時にスマホを取り出し、迷いなく通報ボタンを押す。
