第10章
陸田明広は言っていた。パリの骨髄移植センターなら、もっと進んだ技術と、より豊富な適合データがある――綿子に残された、たった一つの希望だと。
だからこそ、江原安美はそれを掴まなければならない。命綱を。
問題は金だ。できるだけ早く、必要な額を用意しなくては。
安美はブラウザを開き、海外のジュエリーデザイン会社やフリーランスデザイナーの募集情報を片っ端から検索した。代表作と履歴書を添えて、何社かに送信する。
それを終えると、以前つながりのあった先輩にも連絡を入れた。
先輩はいま海外でジュエリー貿易の仕事をしている。安美はそのツテで、短期でもいいから副業の案件を回してもらえないかと頼んだ。少しでも早く、収入が欲しい。
その後の数日、川崎佑哉は案の定、家に帰ってこなかった。
考えるまでもない。どこにいるのか、誰のところなのか。
――慣れなきゃ。
安美は自分に言い聞かせた。
毎日、リモートで副業のデザイン初稿をいくつか仕上げる一方で、パリの骨髄移植センターとの調整状況を何度も確認した。
そして眠る前には、そっと下腹に手を当て、しばらく目を閉じる。綿子が回復し、子どもが無事に生まれる光景を思い描く。暗闇を渡るための、かすかな灯り。
四日目の午前。
ネックレスのデザイン案を修正していた安美のスマホが、唐突に鳴った。
画面に表示されたのは『お爺さん』。
指先がぴたりと止まり、息を整えてから通話に出る。
「安美か。最近どうだ? 佑哉のやつ、いじめたりしてないか?」
受話器から聞こえるのは、年長者らしい柔らかな声。そこに滲む気遣いが、胸に刺さる。
安美はスマホを握り直し、できるだけ平静に答えた。
「お爺さん、私は大丈夫です。佑哉さんも……いじめたりはしていません」
今の二人の関係を、どう説明すればいいのか分からない。結局、曖昧に濁すしかなかった。
「それならいい」
お爺さんがくすりと笑う。
「ここ数日で少し体も動くようになってな。お前たち二人に、うちへ何日か泊まりに来てほしいんだ。わしの相手をしてくれ」
「佑哉は仕事だ仕事だって、顔も見せん。落ち着いたら、お前が引っぱってでも連れて帰ってこい」
お爺さんはいつだって安美に優しかった。佑哉に冷たくされていることが分かっていても、三年間、一度も安美を責めたことはない。
その善意を、安美は突っぱねられない。
迷ってから、安美は小さくうなずいた。
「分かりました。佑哉さんにも伝えます。できるだけ早く伺いますね」
通話を切ってから、安美は画面に表示された川崎佑哉の番号を見つめたまま、しばらく指が動かなかった。
いま会えば、気まずさと口論が増えるだけ――分かっている。
けれど、お爺さんの頼みを無視もできない。
安美は短いメッセージを打って送った。
『お爺さんが、老宅に数日泊まりに来いって。時間作って』
返信が来たのは夕方になってから。たった一行。
『明朝迎えに行く』
その文字列を見ても、胸はもう何も揺れなかった。
安美は淡々とスマホをしまい、荷造りを始める。
荷物は最小限。着替え数枚と、重要書類、USBメモリ。
それから、いつも飲んでいる葉酸の錠剤をそっとバッグの奥へ押し込み、肌身離さず持てる位置に移した。
老宅で何日過ごすことになるかは分からない。
ただ、波風を立てずにやり過ごしたい――それだけ。
翌朝。
川崎佑哉の車は時間ぴったりに別荘の前へ滑り込んできた。
スーツケースを引いて出ると、彼は車のドアにもたれて立っていた。仕立てのいい黒いスーツ。硬い横顔。目の下には、消えきらない疲労の影。
ここ数日、まともに休めていないのだろう。
――何のせいで休めなかったのか。
安美は訊きたくもない。自分で自分を傷つけるだけだ。
安美は何も言わず、後部座席のドアを開けて乗り込んだ。
佑哉も運転席に乗り込む。車内には、気まずい沈黙だけが漂い、エンジン音がやけに大きく響いた。
車は市街地を抜け、郊外の川崎家の老宅へ向かって走り出す。
道中、二人は一言も交わさない。
安美は窓に額を寄せ、流れていく景色をぼんやり追った。頭の中では、出ていく日程と、金の算段ばかりが回り続ける。
――もうすぐ老宅のある路地、というところで。
佑哉が突然ブレーキを踏んだ。きぃ、と短い音。車体がぐっと前にのめり、安美の額が前席にぶつかりそうになる。
「江原安美。お爺さんに言ったのは、お前だろ」
氷みたいな声だった。
安美は額を押さえ、眉を寄せる。
「何の話ですか」
佑哉が身を乗り出し、圧をかける。
「お爺さんが千雪を呼んで、二人で話した。お前の差し金じゃないって言うのか」
ああ、そういうこと。
安美は苦笑した。鈴村千雪の件か。
「三年も夫婦やってきて、私ってあなたの中では、陰で告げ口するような人間なんですか」
千雪より大事にしろなんて言わない。
けれど、根拠もなく悪者にされる筋合いはない。
佑哉は安美を射抜くように見て、言い切った。
「違うのか? お前はそういう女だろ」
胸が締めつけられ、息が浅くなる。安美は唇をきゅっと結び、低い声を絞り出した。
「買いかぶりすぎです。私に、お爺さんを動かす力なんてありません。わざわざ千雪さんを呼び出させるなんて、できるわけがない」
佑哉が口元だけを歪める。笑っているのに目は冷たい。
「江原安美。千雪は昨日の面談のあと、ひどく落ち込んでた。腹の子に何かあったら――全部、お前のせいだ」
「そのときは、お爺さんに泣きついても無駄だ。千雪と子どもに償わせる。お前も、お前の妹もな」
背筋がぞくりと冷えた。
それでも安美は退かなかった。
「私のせいだって決めつけるなら、どう説明しても無駄でしょう。好きにしたらいい」
佑哉が吐き捨てる。
「江原安美。お前、いまの自分が滑稽だって分かってるか」
安美の腹の底から、怒りが立ち上がる。
「川崎佑哉、あなたこそ是非も分からない馬鹿じゃない!」
佑哉の眉が険しく寄る。
「……何だと?」
安美は口を閉ざした。
もう一度言えば、今度こそ本当に殺されかねない。そんな賭けはできない。安美は死ねない。妹を救う金を稼がなくてはならない。
佑哉が安美の顎を掴み、ぐいと顔を上げさせる。瞳を覗き込み、低く警告した。
「これから余計な真似はするな。俺を苛つかせたら、お前も無事じゃ済まない。分かったな?」
奥歯を噛みしめながら、安美は言い返す。
「離して。お爺さんに気づかれたら、また私のせいにするんでしょう」
佑哉は手を放した。
安美の顎に、赤い指の跡がいくつか残る。それを見て、佑哉は目を細める。
安美は顎をさすりながら心の中で何度も舌打ちした。
「……今、俺のこと罵ったか?」
当てられて、安美は反射的に薄く笑う。作り物の笑顔。
「まさか。私があなたを罵るなんて、できるわけないじゃないですか」
静かでおとなしい顔立ちの安美がそう笑うと、眉も目元もふわりと弧を描く。
佑哉は一瞬、言葉を失ったように固まった。
「……そうだといい」
視線を不自然に逸らし、煙草を取り出す。
火をつけようとした、その瞬間。
安美は車のドアを押し開けた。冷たい空気が流れ込む。
「先に入ります」
佑哉の声が険しくなる。
「お爺さんに俺が怒られるようにしたいのか?」
安美は指を握り込み、淡々と言った。
「煙草の匂いが苦手なんです。外で待ってます」
言い終えるなり、ばたん、と強めにドアを閉めて離れた。
佑哉は煙草を一本吸い切るまで、何か考え込むように動かなかった。
やがて車を降り、二人は並んで老宅へ向かって歩く。
門の前で待っていたお爺さんは、二人の姿を見つけると顔いっぱいに笑った。
「来たか来たか! さあ、上がれ。座れ座れ!」
そして視線が安美の顎に止まり、笑みがすっと薄れる。
「安美……その顎、どうしたんだ?」
