第2章

「ええ、私のものです。ありがとうございます、鈴村さん」

平静を装いながら、江原安美は封筒へ手を伸ばした。

けれど、先に川崎佑哉が奪い取るように手を出す。

「これは何の報告書だ」

見下ろしてくる視線の奥で、暗い光がゆらりと揺れた。

「具合が悪いのか?」

鈴村千雪が意外そうに眉を上げ、二人を見比べる。その目に探る色が濃くなる。

江原安美は無意識に服の裾を握り締めた。手の甲に血管が浮き、ひどく痛々しい。

――もし川崎佑哉が、妊娠を知ったら。

ここまできて、彼女自身だってこの子を残すつもりは薄かった。

それでも、川崎佑哉のやり方なら「堕ろして終わり」では済まない。そんな予感だけが、骨の髄まで冷たく刺さる。

我に返り、胸のざわめきを押し殺す。

「私の私用です。川崎さんには関係ありません」

封筒を取り返そうと、もう一度手を伸ばす。

「返してください」

「関係ない?」

川崎佑哉の声は氷のように冷え切っていた。

「いま俺は客だ。おまえが感染症でも抱えていたら、こっちにも影響する」

爪が掌に食い込み、痛みで意識が現実に引き戻される。

封筒の口に指がかかった瞬間、江原安美の心は底へ沈んだ。

そのとき――鈴村千雪が、ふわりと間へ割って入るように笑う。

「佑哉、そんなに強く出たら怖がるよ」

そして、さらりと言い添えた。

「ここの工房、ちゃんとしてる。スタッフは健康診断も受けてるし、あなたが言うようなことは起きないって。意地悪しないの」

鈴村千雪は封筒を川崎佑哉の手から取り、江原安美へ差し出す。

意味ありげに一度だけ視線を走らせてから、川崎佑哉の腕に手を絡め、そのまま部屋を出ていった。

寄り添って離れない背中が遠ざかるほど、胸の奥に細い痛みが増えていく。

ぼんやりしたままオフィスへ戻り、椅子に沈み込んでどれほど経ったのか。

江原安美は、震える指で電話をかけた。

「ヘーレンス先生。……お誘い、受けさせてください。パリで、先生のデザインチームに参加します」

受話器の向こうで、男の声が弾む。

「本当かい? よかった! 前に断られたから、もう一緒に仕事はできないと思っていた」

「ちょうど半月後に、すごく重要なジュエリー展があるんだ。そこまでに来られる?」

半月――十分だ。身の回りを片づけて、妹も連れて出るには。

海外の著名チームから、主席デザイナーとして招かれていたことがある。

それでも江原安美は、川崎佑哉に未練を断ち切れずにいた。傍にいれば、いつか彼の心も温まるのではないかと。

けれど彼は、離婚を口にした。ここに残ったところで、苦しいだけ。

恋が終わっても、仕事まで捨てる必要はない。

「はい。伺います」

電話を切った瞬間、今度はスマホが震えた。

画面に表示されたのは、妹の主治医の名前。

江原安美は息をのむ。

「大崎先生……何か、ありましたか?」

「江原さん。検査結果が出ました。妹さんは白血病です」

重い声が、耳の奥へ沈む。

「状態はかなり悪い。適合するドナーも見つかっていません。お時間があるなら、すぐ病院で適合検査を」

呼吸が止まった。頭の中が真っ白になる。

一週間前、江原綿子が突然鼻血を出して倒れた。

結果を待っていたのに――白血病だなんて。

唇を噛みしめ、声を絞り出す。

「……分かりました。今すぐ行きます」

電話を切るなり、病院へ駆けた。

検査結果は早かった。

姉である江原安美は、妹と適合した。

身体の芯から凍える。

ベッドで青白く横たわり、意識のない綿子を見た瞬間、胸が裂けそうだった。

両親を亡くしてから、綿子は唯一の家族だ。

失ったら、本当に何も残らない。

「ほかに方法はありませんか」

声が震える。

「お金はいくらでも……とにかく綿子を助けたいんです。お願いします」

主治医は迷うように言った。

「以前こちらで検査された際、妊娠されていましたよね?」

江原安美は茫然と頷く。

「確率の話ですが、胎児の臍帯血が適合する可能性は高い。ドナーが見つからないなら、出産して臍帯血を……という選択肢になります」

医師は言葉を選びながら続けた。

「九か月あれば、間に合うと思います」

江原安美は、病室の前で動けなくなった。

さっきまで迷っていたはずなのに。

いまの言葉は――この子を残すしかない、と宣告している。

けれど、川崎佑哉は離婚すると言った。そんな相手の子を産むのか。

それでも堕ろせば、綿子が生きる希望を失うかもしれない。

魂が抜けたまま家へ戻ると、リビングに川崎佑哉が座っていた。

鈴村千雪のところへ行っていない? 珍しい。

江原安美は動揺を隠して玄関を閉める。

「……今、署名しますか」

川崎佑哉は沈んだ目で彼女を見た。

「家のメイドが言ってた。生理が一か月遅れてるそうだな」

心臓が跳ねる。

まさか彼が、そんなことを口にするなんて。

掌をつねり、平静を作る。

「ええ。だから病院で月経不順って診てもらいました。ストレスだろうって」

川崎佑哉が立ち上がり、圧のある体躯でゆっくりと迫ってくる。

「なら病歴を見せろ。何を隠してる」

指先がひやりと冷えた。

咄嗟に、江原安美は口を開く。

「報告書の緊急連絡先、あなたの番号を書いたんです」

そして声を落とした。

「……鈴村さんに、私たちの関係を知られたくないでしょう?」

川崎佑哉の足が止まる。

唇の端に、嘲りが走った。

「ずいぶん『分かってる』じゃないか」

江原安美は拳を握ったまま、本能的に息をついた。

いまは、妹のためにも妊娠を守らなければならない。

けれど次の瞬間、川崎佑哉は彼女の顎を掴み上げ、氷の声で言い放った。

「残念だが、俺はおまえを信用しない。……面倒の種も残したくない」

テーブルへ投げるように置かれたのは、検査薬。

「測れ。結果を見せろ」

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