第3章

ローテーブルの上に置かれた検査薬を見た瞬間、江原安美の指先から血の気が引いた。呼吸さえ重く、喉の奥に引っかかる。

男の墨のような瞳が、逃げ道を塞ぐみたいに彼女へ突き刺さっている。少しだって逸らせない。

同じ川崎佑哉でも、三年ものあいだ向けられてきた無関心とは別物だ。けれど結局――どちらも息苦しい。

安美はスカートの裾を握りしめた。握力が増すほど、爪が皮膚に食い込みそうになる。脳裏を駆け巡るのは病院で大崎医師に告げられた言葉と、病室で眠る綿子の青白い横顔。

「どうした。怖くてできないのか?」

川崎佑哉の声は冬の風みたいに冷たい。彼が一歩詰めた瞬間、長身の影が覆いかぶさり、部屋の空気がきしむ。

「江原安美。おまえ、何を隠してる? あの病院の書類、月経不順じゃないんじゃないのか」

疑いが針のように胸へ刺さる。

安美は顔を上げ、値踏みするような嘲りを含んだ視線を真正面から受け止めた。慌てを押し殺し、声をできるだけ平らにする。

「こんなことで冗談言うわけないでしょう。ただ遅れてるだけ。どうしてそこまで必死なの」

「必死?」

佑哉が鼻で笑う。次の瞬間、指腹が顎を強く挟み上げた。骨に響くほどの痛み。

「離婚したあと、どこからともなく『俺の子だ』なんて持ち出されて絡まれるのはごめんだ。江原安美、分かってるだろ。俺の子どもは、誰でも産めるもんじゃない」

刃物みたいな言葉が、傷だらけの胸を正確に抉った。涙がこみ上げるのを必死で堪える。

「くだらねえ真似はするな。今すぐ測るか、病院で血を抜いて検査させるか。選べ」

一切の余地がない声音。

――この男は言ったらやる。病院へ連れて行かれたら、妊娠は隠せない。そうなれば、彼は絶対に残させない。

綿子の希望が消える。

安美は唇を噛み、腰を折って検査薬を拾い上げた。

「……測ります」

佑哉はその場を動かず、眉間に皺を寄せたまま、安美が洗面所へ消えていく背中を見送る。胸の奥に理由の分からない苛立ちが湧く。

どうして、ここまで確かめたい?

自分でもはっきりしない。鈴村千雪と結婚すると決めた。江原安美は名ばかりの妻――そう割り切っているはずなのに。

たとえ妊娠していたとしても、処理する手段ならいくらでもある。そう思っていた。

それでも、あの逃げるような目が焼きついて離れない。真実を知りたいという衝動が、脅す形でしか表に出せないのが腹立たしい。

洗面所で、安美は手の中の検査薬を見下ろした。心臓が小さく震える。

どうする?

佑哉に知られるわけにはいかない。少なくとも今は。綿子のために、この子を守らなきゃいけない。

頭の中で必死に段取りを組み立てる。――そのとき、ふっと光が差した。

安美の瞳がわずかに明るくなり、荒れていた感情が静かに整っていく。

数分後。

安美は表情を消したまま洗面所から出てきた。

「妊娠してない。月経不順です。これで安心?」

彼女が差し出した検査薬には、一本線。

佑哉は目を落とし、じっと確かめる。疑念が少し薄れるのに、胸に居座る苛立ちだけが消えない。念入りに確認してから、今度は安美の顔を見た。

鋭い視線。何もかも見透かそうとする刃。

青白い顔色。それでも瞳は静かで、綻びがない。

誰も気づかない。背中側で、安美の手が不安げにぎゅっと握り込まれていることに。

「……ならいい」

佑哉は検査薬をローテーブルへ放った。声は相変わらず冷たい。

安美は胸の奥で、重い石がそっと落ちるのを感じた。

――疑いを消すには、逆に怒らせるのがいちばん早い。

「川崎佑哉。こんな回りくどいことしなくてもいい。だって私、仮に妊娠してても残さないから。あなたみたいに冷たくて偏った父親なんて、子どもに要らない」

佑哉の眉がぴくりと動いた。逆鱗に触れたみたいに、上から見下ろして嗤う。

「自惚れるな。俺がおまえの妊娠なんか気にするか? おまえが俺の子を産む? 笑わせる」

刃が、千切れかけた心をさらに裂く。

安美は笑った。乾いた笑い。目の奥がひりつく。

「そんなに面倒が嫌なら、さっさと離婚協議書を送って。署名したら終わり。橋は橋、道は道。あなたの結婚準備の邪魔もしないし、私だって次を探すから」

佑哉は言葉に詰まった。安美の目が波一つ立っていないのが、なおさら腹立たしい。だが怒りを爆発させる理由が見つからず、低く言い捨てる。

「三日後に届ける。大人しく待ってろ」

張り詰めた沈黙の最中、佑哉のスマホが鳴った。画面には『お爺さん』。

彼の表情がわずかに和らぎ、通話に出ると声の棘が引っ込む。

「お爺さん」

受話器の向こうから、川崎のお爺さんの張りのある声が響く。

「今夜、家に来て飯を食え。話がある。安美も連れてこい。最近見てなくてな」

夕食――本当は鈴村千雪を迎えに行くつもりだったのだろう。佑哉は断りかけ、結局、押し切られるように答えた。

「……分かった」

電話を切ると、佑哉は安美を一瞥する。

この女は、お爺さんを盾にする――そんな目。

「支度しろ。老宅で飯だ。言うべきことと言うなってこと、分かってるな?」

安美は答えず、寝室へ行き、地味なワンピースに着替えた。お爺さんはこの家で唯一、彼女に優しい人。心配はかけたくない。

玄関には佑哉が待っていた。

二人は前後して家を出る。会話はない。

車に乗り、ドアを閉めようとして、指先にひやりとしたプラスチックの感触が触れた。

目を落とす。

ドアポケットに、避妊具の箱。

胃の中がぐらりと揺れ、吐き気が込み上げる。三年間、夫婦として一度も存在しなかったもの。つまり――鈴村千雪のため。

安美は反射的に手を引っ込め、窓の外へ顔を背けた。呼吸まで薄くする。あんなものを視界に入れるだけで、目が汚れる気がした。

佑哉も気づいたのか、一瞬だけ間が不自然に空いた。だが何も言わず、エンジンをかけて車を走らせる。

川崎家の老宅に着くと、川崎のお爺さんが門の前で待っていた。安美を見た途端、皺だらけの顔がぱっと明るくなる。

「安美、久しぶりだな。顔色が悪いぞ。疲れてるのか?」

その優しさが胸のいちばん柔らかいところを突き、安美の目元が熱くなる。必死に笑ってみせた。

「お爺さん、大丈夫です。最近ちょっと忙しくて」

後ろから佑哉が入ってくると、お爺さんは彼に鼻を鳴らし、すぐ安美へ向き直って柔らかく言った。

「さあ入れ。料理が冷める」

食卓には安美の好きな料理が並び、お爺さんはせっせと取り分ける。

「安美、この前、妹さんが具合悪いって言ってたな。どうだ、良くなったか?」

前のチャプター
次のチャプター