第5章
「うん」
安美が綿子のことを話そうとした、その瞬間。ポケットのスマホがけたたましく鳴り出した。
画面に浮かんだのは「大崎先生」の文字。胸がずんと沈み、指先が震えたまま通話ボタンを押す。
「江原さん! すぐ病院に戻って!」
大崎の声は切迫していて、言葉が息継ぎもなく飛び出してくる。
「江原綿子さん、急に状態が悪化しました。さっき急な高熱が出て、血小板が一気に落ちています。いつ内臓出血が起きてもおかしくない。直ちに無菌室へ移して隔離治療、それと標的治療も開始します。これ以上遅れると間に合いません!」
「……え?」
雷に打たれたみたいに、安美の身体が固まった。手にしていた生姜茶が、こぼれそうに揺れる。声が震えて、うまく息が入らない。
「い、いま行きます……! 大崎先生、標的治療って……高いんですか」
「はい。現状いちばん効果が期待できる方法です。ただ費用は高額で、1日の治療費に加えて薬剤費も含めると数十万円単位になります。それと病院の規定で、治療開始と無菌室への移動には先に保証金として100万の預り金が必要です」
大崎の声が重く落ちる。
「江原さん、急いで工面してください。本当に、綿子さんは待てません」
通話が切れた刹那、安美の目から涙がぽろぽろ落ちた。糸の切れた真珠みたいに、止まらない。
保証金100万。さらに毎日数十万。
いまの彼女にとって、天文学的な数字だった。
婚約指輪――いや、ペアリングのデザインに関する一部の前金は受け取った。でも、到底足りない。デザイン画を全部売ったって、間に合うはずがない。
「安美、落ち着け。綿子は大丈夫だ」
明広がすぐに声をかけた。
「金のことは心配するな。病院に着いたらまず保証金を入れよう。残りも、俺がなんとかする」
安美は明広の瞳にある心配の色を見て、胸が熱くなって、同時に痛んだ。喉が詰まり、声が上ずる。
「明広……また迷惑かけて、私……」
「迷惑とか言うな」
明広が被せるように言い、アクセルを踏み込む。車は矢のように夜道を切った。
「俺たち、小さい頃から一緒だろ。綿子だって、俺は見てきた。あの子のことは、俺のことだ」
「……必ず返す」
安美はスマホを強く握りしめた。脳裏に浮かぶのは、青白い綿子の顔ばかり。お願いだから、耐えて――その祈りが、胸の奥で何度も繰り返される。
明広は時折、短く励ましてくれた。さらに病院の知り合いにも連絡を入れ、無菌室の手配や薬の手続きが少しでも早く進むよう調整してくれる。
二十分後、市中心医院に到着。
明広は足元のふらつく安美を支え、入院棟へと急いだ。血液内科の廊下に差しかかったところで、看護師ステーションのそばに立つ男が目に入る。
川崎佑哉。
仕立てのいいスーツ、背筋の伸びた立ち姿。その腕には鈴村千雪が親しげに絡みつき、二人で検査票らしき紙を覗き込んでいた。向かう先は、どう見ても産科の診察室だ。
佑哉も、ちょうど顔を上げる。
安美と目が合った瞬間、眉間がきつく寄った。
視線が安美と明広の手元へ落ち、目の奥に冷たいものが湧く。声は氷みたいだった。
「江原安美。なんでここにいる。……そいつと、何してる」
千雪も彼の視線を追って安美を見ると、佑哉の胸に身を寄せるようにして、柔らかく言った。
「江原さん、偶然ですね。私たち、健診に来たんです。江原さんも……ですか?」
何気ないふりをした声音。そのくせ「健診」という言葉だけが、やけに強調されて耳に刺さる。
――いま佑哉の隣にいるのは私。私たちの子どもを迎えるの。
そう言われた気がして、安美の心が針でちくりと刺された。
反射的に、明広に握られていた手を引く。表情を殺し、声を平らにした。
「妹の付き添いです。川崎様には関係ありません」
これ以上関わる気もない。綿子のところへ行かなきゃ。
安美は二人を避けるように、足早に奥へ進んだ。
病室前まで来ると、大崎がすでに待っていた。手には書類が束になっている。
「江原さん、陸田さん。綿子さんはいったん熱は下がりましたが、危険な状態には変わりません。無菌室へ移します。こちらが治療計画と支払いの書類です。先に会計をお願いします。こちらで看護師に移送の準備をさせます」
安美は書類を受け取った。そこに並ぶ数字が、紙面いっぱいに殴り書きみたいに並んでいる。手が、どうしようもなく震える。
明広が財布も迷いも見せず、クレジットカードを取り出して大崎へ差し出した。
「大崎先生、いちばんいい薬で。綿子を助けてください」
「分かりました。陸田さん、ご安心を。こちらも全力を尽くします」
大崎はカードを受け取り、看護師に会計へ走らせた。
ほどなくして、看護師がストレッチャーを押してくる。綿子はそのまま無菌室へ。
安美は、妹の姿が廊下の突き当たりに消えるまで見送った。見えなくなった途端、壁にもたれ、全身から力が抜け落ちる。
休憩スペースの長椅子に座り込むと、小腹の鈍い痛みがまだ引いていないことに気づく。手元には、さっきの支払い書類。指先まで冷たかった。
明広が立て替えてくれたのは40万。けれど病院が求める100万まで、まだ60万足りない。
しかも標的治療の費用は、これから毎日数十万。底の見えない穴だ。
明広が助けてくれても、ずっと一人に背負わせるわけにはいかない。
無菌室の方向を見つめると、酸素マスクをつけた綿子の弱々しい姿が脳裏に蘇る。心臓が重いもので押し潰され、息が苦しくなった。
迷って、迷って――それでも安美はスマホを取り出し、川崎佑哉へ電話をかけた。
いま、すぐ大金を用意できる人間。佑哉以外に思い当たらない。
呼び出し音が長く続く。繋がるかと思った瞬間、耳元で無機質な音声が告げた。
『おかけになった電話は、ただいま通話中です』
安美は諦めきれずに、続けて三回かけた。
どれも同じ。切られ、切られ、最後は留守番電話へ落ちる。
スマホを握る手が激しく震えた。目の縁が真っ赤で、鼻の奥がつんと痛い。
――分かってた。
佑哉はいま千雪と一緒だ。ましてや、安美の厄介事を引き受けるために時間を割くはずがない。
「安美、もうやめろ」
明広が近づき、温い水を手渡した。痛々しいものを見る目で、静かに言う。
「残りの60万も、ついでに入れてきた」
安美はコップを受け取った。喉が詰まって声が出ず、ただ強く頷くしかない。
明広だって、もう十分すぎるほど無理をしている。それなのに、支払いはこれからも続く。重たい山が、肩にのしかかって息ができない。
――これ以上、この人を巻き込みたくない。
「明広、ごめん……いつも私のために走らせて」
鼻声になった。
「婚約指輪のデザインの残金が入ったら、まず少しでも返すから」
「他人行儀なこと言うな」
明広が彼女の頭を軽く撫で、穏やかに言った。
「綿子のそばにいてやれ。金のことは俺が動く。俺は医者と今後の治療の段取りを詰めてくる。安美はここで休め。倒れたら元も子もない」
安美は小さく頷いた。長い睫毛が伏せられ、その下で何かを考える目が揺れる。
座って待っているだけじゃだめだ。
明広が離れたのを見届け、安美は立ち上がって産科へ向かった。綿子のためなら、もう体裁なんてどうでもいい。
けれど産科へ行っても、二人の姿はなかった。
どっと疲労が血管の隅々まで広がり、安美は長椅子に崩れるように座り込む。
スマホを開き、佑哉とのトーク履歴を遡った。
最後に残っていたのは、安美の「いつ帰ってくるの?」
そして、佑哉の返事はたった一言。
「忙しい」
