第7章
「川崎佑哉、ほんとに病気なんじゃないの! 信じないなら、聞かなきゃいいでしょ」
江原安美の手首はぎりぎりと掴まれ、骨が砕けそうに痛んだ。目尻を赤くして必死に身をよじる。瞳の奥で、屈辱と怒りが渦を巻く。
「離して! 痛い!」
江原安美の肌は白くて柔らかい。少し触れただけでも痕が残る。その腕は、いま確かに赤く染まっていた。
川崎佑哉の目が一瞬だけ揺れ、手がふっと緩む。だが声は氷みたいに冷たかった。
「江原安美。妹の件、助けてやれないわけじゃない」
――痛いところを、正確に抉ってくる。
彼はいつもそうだ。数言で彼女の息を奪い、抵抗する気力ごと削ぎ落とす。
江原安美は唇を噛み、低く問う。
「条件は?」
愛がないまま最後まで歩けば、残るのは取引だけ。そういうことだ。
川崎佑哉は淡々と言った。
「俺と千雪の結婚指輪のデザイン。3日以内に初稿を出せ。俺が納得したら、手を貸す」
「……分かった」
涙を呑み込み、江原安美は頷く。声が震えないように、胸の奥を押し殺した。
「もう用がないなら、上で作業します」
それだけ告げると、彼の顔も、自分の惨めさも見せたくなくて、真っすぐ階段へ向かった。背中は薄いのに、足取りだけは妙に揺れない。
――自分の愛した男に、正妻が、愛人との婚約指輪をデザインする。
これ以上に胸を裂くことが、この世にあるだろうか。
川崎佑哉は本当に、情がない。
そして本当に、彼女を好きじゃない。
気持ちを整え、江原安美は机に向かった。
鈴村千雪は繊細で夢みたいな華やかさが好きだ。いっぽう川崎佑哉は、無駄のないミニマルさを好む。
この相反する二つを、一本の指輪に落とし込む――簡単な仕事じゃない。
目を閉じると、頭の中に要素が次々浮かぶ。
ダイヤのカット、リング台の素材、彫り模様のライン……。
一つずつ削り、選び、組み替えながら、最善の答えを探す。
小腹がときどき、きゅうっと鈍く痛んだ。
身体が悲鳴を上げているのが分かる。それでも止めなかった。
どれほど時間が経ったのか。
画面の設計図を見つめ、江原安美はようやく長く息を吐く。
――これなら、満足するはず。
保存してから立ち上がり、こわばった身体をほぐす。
窓の外はもう深夜で、屋敷はしんと静まり返っていた。
川崎佑哉はたぶん家にいない。鈴村千雪のところだろう。
何年も積み上げてきた片想いが、ようやく尽きた。
終わらせるんだ。
江原安美は目の奥の痛みを指で揉み、ベッドへ倒れ込んだ。
それからの二日間、江原安美はほとんど部屋から出なかった。ひたすら下書きを磨き、細部を詰める。
川崎佑哉は一度も顔を出さず、進捗も尋ねてこない。まるで最初から忘れているみたいに。
江原安美も気にしなかった。
早く仕上げて、命綱の金を手に入れる。それだけだ。
三日目の午後。
ついに完成した。
デザイン画をカラーでプリントし、江原安美は階下へ降りる。
リビングでは川崎佑哉が仕事をしていた。視線だけを上げ、淡々と尋ねる。
「できたか」
「はい」
江原安美は紙を差し出す。
川崎佑哉は受け取り、最初は適当に流し見するつもりだった。
江原安美に多少の腕があっても、驚くほどのものが出てくるとは思っていなかったからだ。
だが――図面を見た瞬間、目つきが変わった。
リング台のラインは流れるように美しく、プラチナの冷たさと、ローズゴールドの柔らかさが絡み合っている。
主石のカットは欠けのない光を返し、周囲のメレは星が月を囲むみたいにきらめいた。
彫り模様は繊細なのに、うるさくない。
浪漫と贅沢を宿しながら、全体はあくまで端正で、凛としていた。
――認めざるを得ない。想像以上だ。
川崎佑哉は短く言った。
「悪くない。千雪に電話する」
「……はい」
江原安美は小さく頷いた。
鈴村千雪が難癖をつけないでくれればいい。綿子の治療費がかかっている。
川崎佑哉が電話をかける。声が、珍しく柔らかい。
「千雪。指輪のデザインが上がった。来て確認してくれ」
――この人、こんな声を出せるんだ。
江原安美は、胸の奥を針で刺されたみたいに痛んだ。
自分には、一度も向けられたことのない温度。
ほどなくして、鈴村千雪が到着した。
白いワンピースに、隙のないメイク。甘い笑みを貼りつけている。
「佑哉」
鈴村千雪は親しげに川崎佑哉の腕へ絡みつく。その視線が、部屋の隅にいる江原安美へ流れ――一瞬だけ侮蔑が滲んだ。
川崎佑哉が言う。
「見てみろ。気に入るか?」
「うん」
表情は崩さない。けれど心の中では、見下しているのが分かる。
――三年間も放っておかれた女が、ろくなものを作れるはずがない、と。
だがデザイン冊子を開き、ダイヤのリングを見た途端、鈴村千雪の瞳がぱっと明るくなった。
「すごく綺麗……!」
「だろ」
川崎佑哉が軽く同意する。
江原安美は、胸につかえていた石がすっと落ちるのを感じた。
そして川崎佑哉をまっすぐ見据える。静かな目で。
「川崎様。約束、履行していただけますよね」
川崎佑哉は我に返ったように江原安美を見た。
平静な瞳を向けられると、なぜか胸の奥がざらつく。
「助手に言って、すぐに100万を振り込ませる。残りは最終稿が決まったら一括で払う」
「ありがとうございます」
江原安美は余計な邪魔をせず、踵を返して二階へ上がった。
薄い睫毛がふるりと揺れる。
ここ数日まともに眠れていなかったせいで、ベッドに触れた瞬間、意識が沈んだ。
だが眠りは浅い。
綿子の笑顔と、川崎佑哉の冷たい瞳が、途切れ途切れに交互へ差し込んでくる。胸が詰まって息がしづらい。
こんこん、と控えめなノック。
江原安美ははっと目を覚ました。
「若奥様。お客様がお見えです」
扉の向こうから、家政婦の小村の声が届く。
窓の外は黄昏。カーテンの隙間から夕陽が差し、床にまだらな光を落としていた。
江原安美はこめかみを押さえ、重い身体を起こして階下へ降りた。
リビングに立っていたのは陸田明広だった。
手には見覚えのあるキャンバスバッグ。数日前、彼の車に置き忘れたものだ。
「病院の帰りに寄った。ついでにこれを届けにな」
陸田明広がバッグを差し出す。江原安美の青白い顔を見た瞬間、眉が寄った。
「まだ顔色が悪いな。ちゃんと休めてないだろ」
江原安美は受け取り、身を引いて招き入れながら、薄く笑った。
「大丈夫」
温い水を出して向かいに座り、すぐ尋ねる。
「綿子はどうでした?」
陸田明広は一口飲み、落ち着いた声で答えた。
「状態は安定してる。分子標的薬が効いてきて、医師もいい兆候だと言ってた」
それから続ける。
「ただ長期で見ると、ここじゃリソースが限られる。知り合いを頼って、N市の骨髄移植センターにも当たってる。向こうは技術も、適合の選択肢も多い。合う骨髄が見つかれば、すぐ転院の段取りが組める」
江原安美の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか? 明広、ありがとう……いつも助けてくれて」
「礼なんていらない」
陸田明広は真っ直ぐ見た。
「金のことも心配するな。川崎佑哉が動かなくても、綿子の治療を止めさせたりしない」
鼻の奥がつんと痛み、江原安美の目元が一気に熱くなる。
「明広……どう感謝したらいいか分からない。お金、できるだけ早く返します」
「急がなくていい。まず綿子と、お前自身を守れ」
陸田明広の声が、ひどく優しい。
そのとき、屋敷の門の方から車のエンジン音が響いた。
陸田明広は気配を察し、さっと立つ。
「俺は帰る。何かあったら電話しろ」
川崎佑哉に変な誤解をされ、江原安美が面倒に巻き込まれるのを避けたいのだろう。
「はい」
江原安美は玄関まで送る。
「もう中へ入れ」
陸田明広が笑う。
「……うん」
江原安美が頷いた、その瞬間。
そのやり取りは、ちょうど帰宅した川崎佑哉と鈴村千雪の視界に収まっていた。
