第11章 チャンスをくれないか
葉月清奈は、結城凝香が「同じものを弁償する。しかもRubyの作品で」と言っていたことなど、もう忘れかけていた。
そんな折、一つの荷物が届く。
差出人は――Ruby。
葉月清奈はそれをテーブルの上に置いたまま、すぐには開けなかった。
彼女はRubyを知らない。
だとすれば、Rubyから自分に何かを送らせられる相手は、結城凝香しかいない。
中身はきっと、あのとき結城凝香が弁償すると言ったネックレスなのだろう。
けれど、あり得るのだろうか。
結城凝香がRubyと繋がっているなんて。
ましてRubyが、自分のデザインしたジュエリーをそう簡単に他人へ渡すなんて。
Rubyの作品がどれだけ入手困難か、誰もが知っている。
あらゆる手を尽くしても、手に入れられない者が大勢いるのだ。
しばらく箱を見つめた末、葉月清奈はようやく封を切った。
中から現れたのは、見覚えのある上品なギフトボックス。
Rubyが自らデザインした、専用のパッケージだった。
そっと蓋を開ける。
透明なジュエリーケースの中には、ネックレスが一つ。
以前自分が身につけていたものと、寸分違わぬ一品だった。
葉月清奈はそれを取り出し、細部まで確かめる。
留め具も、石の配列も、繊細な装飾も――何もかも同じ。
間違いない。
これは確かに、Rubyのネックレスだ。
その瞬間、紀藤瑛介のことが脳裏をよぎった。
今の彼は、優秀なジュエリーデザイナーを探している。
中でもRubyとの提携を、強く望んでいた。
胸がざわつく。
ぞくりとした不安が、背筋を這い上がった。
結城凝香が、脅威になってきている。
Rubyの作品を手に入れられるということは、結城凝香はRubyと面識があるのかもしれない。
たとえ直接の知り合いでなくても、間に入れる共通の人脈があるはずだ。
もし紀藤瑛介がそのことを知ったら――。
結城凝香との離婚を思いとどまるかもしれない。
あるいは結城凝香がそれを切り札にして、夫婦の絆を繋ぎ直すことだってあり得る。
「……だめ。絶対にだめよ。あの二人をこのまま一緒になんてさせない」
葉月清奈はネックレスをぎゅっと握りしめた。
その顔が、一瞬だけ醜く歪む。
それから間もなくして、1枚の写真がSNSに投稿された。
掲載されたのは、妊娠検査報告書の写真。
投稿者は、葉月清奈本人だった。
本文は何もない。
一部にはぼかしも入っている。
それでも、それだけで十分だった。
注目を集め、憶測を呼ぶには。
以前投稿されたダイヤの指輪の写真と結びつき、世間の議論はさらに過熱する。
コメント欄は瞬く間に炎上した。
「これ、どう見ても葉月清奈本人の妊娠報告でしょ。だったら子供の父親は紀藤瑛介で確定じゃん」
「やっぱりあの指輪ってプロポーズだったんだ! 二人って本当に仲良かったし、赤ちゃんまでいるなら、もうすぐ結婚じゃない? 式めちゃくちゃ豪華そう」
「結城凝香、なんでまだ離婚しないの? そもそも紀藤瑛介とは愛のない結婚だったんでしょ。あの人さえいなければ、葉月清奈と紀藤瑛介はとっくに幸せになってたのに」
「紀藤家の金も暮らしも捨てられないんでしょ。いい生活したい気持ちはわかるけど、人の恋愛壊すのは違うわ」
世論は完全に葉月清奈寄りだった。
誰もが彼女に同情し、結城凝香を責める。
一日も早く離婚して身を引くべきだと、口々に言い立てていた。
もし結城凝香がSNSで何か発信していたなら、コメント欄はとっくに荒らされ尽くしていただろう。
世論の流れを作ったうえで、葉月清奈は自ら結城凝香に連絡した。
見慣れない番号。
結城凝香は一度、切ろうかと思った。
だが最近は仕事相手を探している最中だ。
新規の連絡かもしれない。
そう考え、通話に出る。
「もしもし、どちら様ですか」
結城凝香の声は、きびきびとしていながらも感じがいい。
聞く者に好印象を与える声だった。
商談なら、第一印象は重要だ。
その点で、彼女の受け答えは申し分ない。
けれど相手は葉月清奈だった。
その声を聞いた瞬間、気分が目に見えて冷えていく。
「私よ、葉月清奈」
申し訳なさを滲ませた声が受話器越しに届く。
一拍置いて、彼女は続けた。
「結城さん、お忙しいところすみません。少し、お話ししたいことがあって」
結城凝香は眉をひそめた。
まさか相手が葉月清奈だとは思わなかった。
わかっていたら、この電話は取らなかったのに。
「何ですか」
声の温度が、すっと下がる。
葉月清奈相手に愛想よくする義理などない。
「謝らせてください。今日、うっかり妊娠検査の報告書の写真をSNSに載せてしまって……気づいたときには、もうたくさんの人に見られていたんです」
いっそう深まる、わざとらしい罪悪感。
うっかり――。
その一言を、結城凝香は一文字たりとも信じなかった。
故意だ。
間違いなく。
狙いも単純明快。
自分に圧をかけ、紀藤瑛介との離婚を急がせたいのだ。
本当に署名を渋っているのは紀藤瑛介のほうなのに、なぜか葉月清奈はいつも自分ばかりを追い詰めようとする。
呆れるしかない。
「私には関係ありません。謝る相手を間違えてます」
「わかっています。こんなこと、してはいけなかったって。でも……子供には父親が必要なんです。結城さん、お願いです。私たちを認めてください。私たち……」
ひどく低い姿勢。
懇願と無力感を織り交ぜた声色。
だが、その芝居じみた言葉を聞きながら、結城凝香は小さく笑った。
「ふっ」
それだけだった。
何も言わない。
けれどその短い笑いには、軽蔑も、皮肉も、すべて見透かしているという冷ややかさも、たっぷり含まれていた。
葉月清奈はその先を続けられなかった。
自分だけが滑稽な茶番を演じているような気分になる。
通話がいつ切れたのか。
それすら、彼女はしばらく気づかなかった。
病院から戻ったあの日以来、紀藤瑛介はずっと考え込んでいた。
結城凝香に対する見方が、少しずつ変わり始めている。
だからだろう。
ショッピングモールで彼女の姿を見かけた瞬間、気づけば足がそちらへ向いていた。
「……何の用?」
結城凝香は眉を寄せる。
その日の彼女は、セットアップのワンピース姿だった。
ほどよく端正で、すっきりと洗練されている。
視線はまっすぐで、話すときも迷いなく相手の目を見る。
家で見ていた頃の彼女とは、まるで違った。
あの頃はたいてい、着心地のいい部屋着姿か、エプロン姿でキッチンから出てくるばかり。
口調はいつも柔らかく、慎重で、彼の目を正面から見ることも少なかった。
少し俯きがちで、おとなしく従順だった。
同じ人間が、ここまで変わるものなのか。
「聞きたいことがある」
紀藤正博との会話は、やはり彼の胸に波紋を残していた。
結城凝香は何も言わず、視線だけで先を促す。
早く話して、と。
時間を無駄にするつもりはないらしい。
紀藤瑛介は一瞬ためらったものの、意を決して口を開く。
「もし……いや、仮にだ。俺が葉月清奈と別れて、もうあいつが俺たちの間に入らないようにしたら……俺に、やり直す機会をくれないか。もう一度最初から、やり直したい」
結城凝香は目を見開いた。
意外すぎた。
どういう風の吹き回しだろう。
何かでもあったのか。
でなければ、紀藤瑛介がこんなことを言うはずがない。
当の紀藤瑛介は、内心ひどく落ち着かなかった。
彼女が何と答えるのか、怖い。
否定の言葉だけは聞きたくなかった。
そのとき、不意に彼のスマホが鳴る。
出たくない。
今はまず、結城凝香の返事を聞きたかった。
「電話、鳴ってるわよ」
結城凝香の視線が、彼のポケットへ落ちる。
二度目の着信音が鳴ったところで、紀藤瑛介はようやくスマホを取り出した。
よほどの用事でなければ許さない――そんな苛立ちさえあった。
画面に表示されていたのは、葉月清奈の名前。
彼はそのまま通話ボタンを押す。
しかも誤って、スピーカーまで入れてしまった。
「瑛介……お腹が痛いの。赤ちゃん、もしかして……私、怖い……」
受話器越しに響く葉月清奈の声は、弱々しく震えていた。
不安と怯えと力なさが、ありありと滲んでいる。
聞いた瞬間、胸がぎゅっと掴まれるような声だった。
紀藤瑛介は結城凝香に何も言えないまま、踵を返す。
「すぐ行く」
それだけ残し、足早に立ち去っていった。
