第12章 紀藤瑛介、自分の女、ちゃんと躾けて

数歩進んだところで、すでに通話を切った紀藤瑛介が振り返り、結城凝香を見た。言いたいことは山ほどあるはずなのに、最後に残ったのはたった一言。

「清奈が少し具合悪いんだ。ちょっと様子を見に行ってくる……」

紀藤瑛介が葉月清奈のもとへ向かうにあたって、こうして一言説明するのは初めてだった。

けれど、さっきの反応が答えを示している。

葉月清奈から電話が一本来れば、彼は迷いなく何もかも放り出して駆けつける。

結城凝香は笑った。ずっと昔と同じ、従順な微笑みで。

「行ってらっしゃい。できれば葉月さん、病院で診てもらったほうがいいわ。妊娠中なんだから、念のためにね」

紀藤瑛介は、何かを失ったような気がした。

結城凝香のこの態度も、どこか腑に落ちない。

それでも、葉月清奈への心配が勝った。深く考える余裕はない。

結城凝香に小さくうなずくと、彼は踵を返して去っていく。風のような足取りで、背中はすぐに見えなくなった。

その迷いのない背を見送っても、結城凝香の心はもう揺れなかった。

紀藤正博の言葉で立ったささやかな波紋も、すでに凪いでいる。

紀藤瑛介に機会を与えなかったのではない。

彼のほうが、最初から必要としていなかっただけだ。

――

一方で、電話越しに聞こえる紀藤瑛介の焦った声を聞きながら、葉月清奈は笑っていた。

相変わらず。

電話一本で、紀藤瑛介はすべてを放り出して自分のそばに来る。

やはり彼の中で一番大事なのは自分だ。

結城凝香が送ってきたRubyのネックレスひとつで、動揺する必要なんてなかった。

――

翌日。

機嫌のいい葉月清奈は、買い物に出かけようと通りを歩いていた。

ふとカフェの前を通りかかったとき、店内に結城凝香の姿を見つける。

ひとりだ。

しかも、テーブルの上に何かを広げている。

結城凝香が何をしているのか気になったし、胸の奥には見せつけたい気持ちもあった。

葉月清奈はそのまま店に入る。

「ここ、空いてる?」

口ではそう言いながら、遠慮する気配は一切ない。

結城凝香が答えるより早く、葉月清奈は向かいの席に腰を下ろした。

ここ数日、葉月清奈の電話に振り回され、外へ出れば紀藤瑛介と鉢合わせ。

次から次へと視界に入ってきて、気分を壊されっぱなしだ。

結城凝香は相手にする気にもならない。

さっきまでここで人と会って話をしていた。相手が先に帰り、少しだけ残っていただけなのに、まさか葉月清奈が来るとは。

葉月清奈は視線を落とし、優しげな表情でそっと腹部を撫でた。

「昨日ね、お腹がちょっと痛くて……瑛介に電話したの。そしたらすぐ駆けつけてくれたわ。どれだけこの子のことが好きで、大事にしてるか、わかるでしょう?」

言葉とは裏腹に、視界の端で、結城凝香の様子を窺っている。

わざとだ。刺激して、優越感を叩きつけるために。

結城凝香はカップを置き、淡々と言った。

「具合悪いなら大人しく休んだら? 回復が早すぎて、知らない人なら『嘘かな』って思うかもね」

葉月清奈の得意顔が、わずかに引きつる。

図星だ。

本当は演技だった。紀藤瑛介の中で自分がどれほど重いか、確かめたかっただけ。

それでも彼女はすぐ笑みを作り直す。

「私、体が強いの。瑛介、あなたにはあんなふうにしてくれたことないでしょう? 結城さん、いつまでしがみつくつもり?」

その瞬間、葉月清奈の視線が結城凝香のテーブルへ落ちた。

数枚の紙――見覚えのある線。

彼女は手を伸ばし、勝手に二枚抜き取った。

「ちょっと!」

結城凝香が眉をひそめ、取り返そうとする。だが葉月清奈はひらりと避けた。

それはジュエリーのデザイン画だった。

Rubyの作風に近いライン。それでいて息がある。目を引く。

――結城凝香が、こんなものを描ける?

ふと記憶がよみがえる。

紀藤瑛介が言っていた。結城凝香はもともとデザイン系の勉強をしていたが、結婚で中断した、と。

もし表に出れば、チーフ級で引く手あまたでもおかしくない。

結城凝香の声音が低く沈む。

「返して」

不満はもう限界だった。

葉月清奈は意に介さない。むしろ、何か思いついたように目を細める。

「焦らないで。すごく素敵。結城さんにこんな才能があるなんて……でも――」

そこでわざと間を置き、声量を上げた。

「でも、これ……なんだか見覚えがある。どこかで……あ、わかった!」

大げさな声に、店内の視線が一斉に集まった。

葉月清奈は信じられないものを見るように結城凝香を見つめる。

「あなた、Rubyのデザインを盗作してるのね。これ、まんまRubyじゃない」

続けて、にやりと口角を上げた。

「だから私にRubyのネックレスを送れたんだ。あなたが作ったんでしょう? 離婚騒動も、これを売り出すための話題作り。デザイナーとしてデビューするための布石だったんだわ!」

言葉が繋がるほど、聞き手の想像は勝手に膨らむ。

周囲の視線が結城凝香へ刺さり、空気が変わった。

盗作――誰もが嫌う言葉だ。

結城凝香は奪い返すようにデザイン画を取り戻すと、葉月清奈を真っすぐ見据えた。

鋭い視線に、葉月清奈の背が反射的に引ける。

結城凝香は紙を掲げ、静かに言い切った。

「これは私のデザイン。初稿からの工程も、署名入りで全部残ってる。あなたのネックレスの件も同じ。Rubyのデザインで、Rubyが制作したものよ」

そして唇だけで笑い、氷のように続ける。

「目が節穴なら、いっそ寄付でもしたら?」

書類をまとめながら、結城凝香は最後通告のように言った。

「今回が最後。次があれば、法的に全部追及する。まとめてね」

背を向けて去っていく結城凝香に、葉月清奈は何も言い返せなかった。

冗談ではない。そう直感できたからだ。

遅れて周囲の客たちも状況を飲み込み、今度は葉月清奈へ冷たい目が集まる。

「濡れ衣だったのか。最初から品があると思った」

「人を陥れるようなこと、よく平気で言えるよな」

「顔は綺麗でも、やることが最悪だな」

居たたまれなくなった葉月清奈は、顔をこわばらせたまま店を出るしかなかった。

――

結城凝香はカフェを出てからも、怒りが収まらなかった。

妊婦相手に手を出すわけにはいかない。だが、このまま好き勝手に不快を押し付けられる筋合いもない。

スマホを取り出し、紀藤瑛介へ電話をかける。

執務室で書類を捌いていた紀藤瑛介は、画面に表示された名前を見て目を見開いた。

胸の奥が、ふっと明るくなる。

――昨日の答えを、やっと聞かせてくれるのか。

昨夜は遅くなりすぎて、断られるのが怖くて電話できなかった。

落ち着かない気持ちのまま、彼は通話ボタンを押す。

「もしもし――」

言い終える前に、結城凝香の怒りを噛み殺した声が飛んできた。

「紀藤瑛介。自分の女、ちゃんと躾けて。できないなら、私が代わりに手を下す」

「――っ」

反論する間もなく、

「ツー、ツー、ツー……」

無機質な切断音だけが耳に残った。

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