第13章 まさか彼女だった、初めて嫌悪感を抱く
その一言だけ残して、結城凝香は通話を切った。取り残された紀藤瑛介は、しばし呆然とする。
あの怒り方――よほど腹に据えかねたらしい。
だが、誰が彼女をそこまで怒らせたのか、見当がつかない。そもそも彼は、結城凝香の立場を公に認めたことさえない。会社の人間が絡むはずもない。
となると……友人関係か?
答えに辿り着けないまま、紀藤瑛介は折り返し電話をかけた。
ちょうど結城凝香も少し落ち着いたところだったのだろう。着信に出て、ぶっきらぼうに言う。
「何?」
紀藤瑛介は声の調子をできるだけ柔らかく整える。これ以上、火に油は注ぎたくない。
「何かあったんだろ。俺にどうにかしろって言うなら、事情くらい教えてくれ。何が起きた?」
「私のデザイン画が、盗作だって濡れ衣を着せられたの」
結城凝香の声には、まだ怒気が張り付いている。
「私だってデザインをやってる。自分の作品くらいあるわよ。デザイナーが盗作扱いされると、どれだけ致命的か……わかる?」
大事になっていないのが、せめてもの救いだ。だが、もしこれが大きな場、影響力のある場で起きて、なおかつ彼女が潔白を証明できなければ――未来は簡単に潰れる。仕事は回ってこなくなり、業界から弾かれる。
あからさまな悪意。
葉月清奈の狙いは、最初からそこだったのだろう。
紀藤瑛介の表情が硬くなる。なるほど、怒って当然だ。人によっては弁護士を立てて訴訟に踏み切る。
「誰だ」
声が低く沈んだ。
「相手の名前を言え。こっちで、どれだけ重大なことをしたか思い知らせる」
結城凝香が、小さく笑った。
「へえ。自分で調べたら?」
嘲るような響きが混じる。
「調べてからも、同じことが言えるといいわね。……その時になって、庇いたくならなきゃいいけど」
そう言い終える前に、結城凝香はまた一方的に通話を切った。
短い間に二度。
しかも一度たりとも、言い返す隙をくれない。
紀藤瑛介の胸の奥に、じわりと暗いものが溜まる。
「庇う? ……あり得ない。俺に『庇う』なんてない」
切れた画面に向かって吐き捨てるように呟き、彼はすぐ秘書に指示を飛ばした。結城凝香に盗作の濡れ衣を着せた人物の特定。それに関連資料の回収。
一方の結城凝香は、すっかり機嫌を取り戻していた。
むしろ少し期待している。
紀藤瑛介が調べ上げ、葉月清奈の「本当の顔」を見たとき――失望するのか、しないのか。
それにしても、紀藤瑛介の見る目は最悪だ。
葉月清奈は確かに美人だ。だが、あの「優しさ」も「善良さ」も、全部が上辺の飾りにすぎない。
そんな時、結城凝香のスマホが鳴った。表示された名は松崎拓海。
返事を保留にしていたから、痺れを切らしたのだろうか。
結城凝香は通話を受ける。
「松崎社長、こんな時間にどうしました?」
「結城さんがデザイン画を持って、何人かと会ったと聞いた」
松崎拓海の声は落ち着いているが、焦りが隠し切れていない。
「こちらが提示した条件では、まだ足りませんか。松崎グループに来ていただくには」
本気で理解できないのだろう。自分以上の待遇など出せる相手はいない、という自負がある。
紀藤瑛介でさえ、これ以上は難しいはずだと。
結城凝香は、くすりと笑った。
「松崎社長の条件が一番良いです。正直、心は動いてます。でも、まだ決めきれていなくて。もう少し時間をください」
少し迷った末に、補足する。
「それと……私が見せたデザイン画は、Rubyのじゃありません。私自身のです。私もデザイナーなんです。ただ、無名なだけで」
松崎拓海が一瞬言葉を失い、すぐに腑に落ちたように息を吐いた。
結城凝香は、Rubyとして他者に会っていない。いまRubyが彼女だと知っているのは、自分だけ――そういうことだ。
表向きの彼女もデザイナー。しかも、学業が終わっていないという噂があったはずだが……おそらく嘘だ。彼女が「卒業できない」わけがない。
松崎拓海は追及をやめ、引き際よく言った。
「わかりました。結城さんの答えが出るまで待ちます。ただ、協業でも入社でも、私を最優先で検討していただきたい」
「約束します。現時点では松崎社長が最優先です」
他に声をかけてきそうな大物は、いまのところいない。強いて言えば紀藤瑛介だが――結城凝香は、紀藤グループに関わる気などさらさらなかった。紀藤瑛介とも、これ以上縁を深めたくない。
――
それから間もなく、紀藤瑛介のもとへ調査結果が届いた。監視カメラ映像まで添えられている。
「紀藤社長、こちらです」
秘書は資料を手渡すと、そそくさと退室した。映像を通しで見た彼は、火の粉をかぶりたくなかったのだ。
紀藤瑛介はまず資料に目を通す。読み進めるほど、顔が沈んでいく。
そして映像が再生された瞬間、彼の表情は最悪の形で固まった。
「……清奈?」
結城凝香を盗作だと決めつけ、あの場で平然と「正義の側」を演じていたのは、葉月清奈だった。
彼の知る葉月清奈は、いつだって優しく、穏やかで、気遣いのできる女だった。
――少なくとも、彼の前では。
だが映像の中の葉月清奈は、あまりに自然だった。まるで、こういうやり方に慣れているかのように。
しかも、彼女がやったのはカフェでの言いがかりだけではない。
店を出たあと、SNSに「意味深」な投稿までしていた。
被害者ぶって、可哀想な自分を演出する。
実際に傷つけたのは彼女のほうなのに。
名指しはしていない。だが、知っている者が見れば一発でわかる書き方だ。
紀藤瑛介は映像を止め、眉間を押さえた。
カフェには客も多かった。幸い結城凝香はその場で潔白を示したが、もし証明できていなければ――どこまで拗れていたか想像もしたくない。
SNSに切り抜き動画でも上がれば、またトレンド入りする。
全体が出れば結城凝香への致命傷にはなりにくい。だが、悪意ある編集で一部だけ出されたら話は別だ。
念のため、秘書を呼ぶ。
「SNSを監視しろ。カフェの動画が出たら、即座に沈める。投稿元も追え。関連投稿は二度と出させるな」
「承知しました、紀藤社長」
秘書が出ていったあと、紀藤瑛介は資料を見下ろしたまま動けなかった。
葉月清奈に対して――初めて、はっきりとした嫌悪が芽生える。
結城凝香を貶めたことへの嫌悪。
平気で嘘を塗り重ねたことへの嫌悪。
その感覚は、退社して葉月清奈と顔を合わせても消えなかった。
むしろ彼は、無意識に距離を取ろうとしていた。
近づきたくない。触れられたくない。
そして、どうしても考えてしまう。
――葉月清奈が自分に向ける、あの嬉しそうな笑顔は。
本物なのか、それとも……。
結城凝香のことを何も知らなかったと気づいたばかりなのに。
今度は、葉月清奈のことすら、自分は大して知らないのだと――紀藤瑛介は遅れて理解し始めていた。
