第4章 あなたの評判、私に何の関係があるの?
「嫉妬?」
紀藤瑛介は、よほど滑稽な冗談でも聞かされたように鼻で笑い、結城凝香を上から下まで品定めする。
「お前が? 身の程を知れ」
結城凝香は笑みを引っ込めない。むしろ口元に、いっそう嘲りの弧が刻まれる。
「じゃあ、これは何をしてるの?」
視線は、紀藤瑛介が強く握った彼女の手首へ落ちた。そこはすでに赤く染まっている。
ダンスフロアでは、周囲の客たちの視線もじわじわと集まってきていた。どれも、どこか意味ありげだ。
目の前で結城凝香を奪われた中島海斗は、さすがに面白くないらしい。表情を引きつらせて声を上げる。
「紀藤社長、女性にはもっと紳士的であるべきでしょう。そういうやり方は感心しませんね」
中島海斗は紀藤瑛介の手首を掴み、二人を引き離そうとした。
だが紀藤瑛介は、空いたほうの手でその手を乱暴に払いのける。声には露骨な苛立ちが滲んでいた。
「俺が自分の妻を連れて帰る。それのどこにお前が口を出す資格がある。何様のつもりだ」
「紀藤社長、もう離婚してるんです! 凝香が何をしようと、あなたには関係ないでしょう。手を放してください!」
小林智美も駆け寄ってきた。結城凝香が痛がっているのを一目で見抜き、怒りを隠さない。
こんなふうに女を扱う男と別れるのは、むしろ大正解だ。
視線はさらに増えた。紀藤瑛介は眉間を深く寄せ、いっそう不機嫌になる。ここで揉めれば、明日また見出しになるかもしれない。
次の瞬間、ぐいと力任せに結城凝香を引き寄せ、その腰を抱いた。中島海斗と小林智美を鋭く睨みつける。
「まだ正式に離婚は成立していない。こいつは今も俺の妻だ。余計な口出しはするな」
「瑛介、放して! 私はもう離婚協議書にサインしたの。葉月清奈に道を譲ったでしょう、まだ何を望むの?」
結城凝香は全身がこわばるのを感じていた。結婚してから今日まで、これほど密着したことなど一度もない。だからこそ、拒絶感が強い。
中島海斗も小林智美も、紀藤瑛介の威圧に押されたうえ、まだ法的には夫婦である事実もあって、それ以上踏み込めなかった。
腕の中で結城凝香が身を硬くしながらも抵抗をやめないのを感じた紀藤瑛介は、半ばやけになったように彼女を横抱きにする。
突然の浮遊感に、結城凝香は目を見開いた。
「あんた、何するの!」
紀藤瑛介は一言も返さない。
そのままバーの外へ出て車のドアを開けると、彼女を後部座席へ放り込んだ。
結城凝香が体勢を立て直したときには、もう車は走り出している。逃げ場はなかった。
心の中に自分など最初からいないくせに。
自分から離婚を切り出したら、今度は追いかけてくる。
理解不能にもほどがある。
手首に残る赤い痕を見下ろしながらも、今は問いただす気力すら湧かなかった。
車は飛ばすように夜道を走り、ほどなく別荘へ着く。
今ここで無理に逃げようとしても、紀藤瑛介は力ずくで止めるだろう。傷つくのは自分だ。
そう判断した結城凝香は、自分から中へ入った。
「瑛介、私を連れ戻して……いったい何がしたいの?」
ソファに腰を下ろすや否や、結城凝香は問いかける。目的がわからないままでは落ち着かない。
紀藤瑛介はコートとネクタイを使用人に投げるように渡してから、向かいに座った。
「簡単な話だ。離婚はいったん保留にする。その代わり、お前は俺に協力して世論を鎮めろ」
言いながら、語気が強まる。
「騒ぎはお前が起こした。お前が収めろ」
結城凝香は、胸のつかえが少しだけ下りた。
「前にも言ったはずよ。記者がどう書くかは私には関係ないし、どうにもできない」
それから、ゆっくり続ける。
「それより、どうして離婚を保留にするの? 離婚しなければ、葉月清奈のお腹の子は隠し子になるわよ」
一拍おいて、わざと紀藤瑛介の身体へ視線を落とし、意味深に眉を上げた。
「それとも、その子はあなたの子じゃないとか……本当に『そっち』が駄目なの?」
男が何度もそんなふうに疑われて、腹を立てないはずがない。
しかも紀藤瑛介は、身体に何の問題もない。結城凝香に手を出さなかったのは、好きでもない相手との間に子供を作れば、後々離婚する際に面倒になると思っていたからだ。
「いい加減にしろ。俺は至って健康だ!」
紀藤瑛介の顔が険しく沈む。眼差しには警告が宿っていた。
「祖父が離婚を許さないから保留にしているだけだ。でなければ今すぐ協議書にサインしている」
結城凝香はそこで深追いをやめた。同時に少しだけ意外でもある。紀藤正博が離婚を認めていないのか。
だとしても、離婚は絶対にする。以前のような日々に戻る気など、もうさらさらない。
結城凝香は立ち上がり、冷えた態度のまま二階へ向かった。
「あなたも離婚したいなら、あなたの名誉なんて私には関係ないわ。自分で片づけて」
言い終えると、紀藤瑛介がどんな顔をしていようと一切振り返らず、そのまま上がっていく。
「おい……」
怒鳴りつけようとしたが、結城凝香はそんな隙さえ与えなかった。
少し冷静になると、紀藤瑛介は今日の彼女の態度に妙な違和感を覚える。
以前の結城凝香は、いつも従順で、何もかも彼に合わせ、必死に取り入ろうとしていた。彼がどれほど冷淡で、きつく当たろうとも、それだけは変わらなかった。
いつから変わった?
自分と葉月清奈がトレンド入りした日からか。
葉月清奈が妊娠を告げに押しかけてきた日からか。
酒場のダンスフロアで見た結城凝香の姿が、ふと脳裏をよぎる。
あれは三年間、一度も見たことのない彼女だった。
――自分は、彼女のことを何ひとつ知らなかったのではないか。
だがすぐに、その考えを切り捨てる。
知ってどうする。
好きでもない女に、時間を割く必要がどこにある。
あるいは、これもまた駆け引きなのかもしれない。気を引くための、稚拙な芝居。
翌日。
紀藤瑛介が出社して間もなく、秘書が慌てた様子で執務室へ飛び込んできた。
「紀藤社長、大変です。株価が大きく下がっています。株主の方々からも何件も問い合わせが入っていて、本当にその……」
紀藤瑛介はこめかみを押さえた。疲労がどっと押し寄せる。
「落ち着かせろ。株価の下落は一時的なものだ」
だが、ネット上の噂をこのまま放置すれば、さらに悪化するだけだ。
彼はパソコンを開き、自身の個人アカウントにログインした。
「ここに改めて厳重に抗議し、声明する。当人は健康上の問題を一切抱えておらず、そのような事実も一切存在しない。疑義があるならば、毎年の健康診断結果を確認されたい。なお、今後も虚偽情報を流布する者に対しては、しかるべき法的措置を講じる」
文末には、彼の「不能」を報じた複数メディアがタグ付けされていた。
「この声明を広報に拡散させろ。固定表示もだ」
紀藤瑛介は歯を食いしばって命じる。
秘書は画面を一瞥すると、すぐに手配へ走った。
その声明はあっという間に拡散された。
事の成り行きを追っていたネットユーザーたちの目にも、当然届く。
紀藤瑛介が自ら出てきたこと自体、誰も予想していなかった。
だが、それで風向きが変わることはなかった。
むしろコメント欄は以前にも増して騒がしくなる。
「紀藤社長が自分で出てくるなんて、よっぽど刺さったんだな」
「昨日は黙ってトレンド消しに必死だったのに、今日になって反論? 手遅れだから焦ってるだけじゃない?」
「なんか逆に怪しいんだけど。結城凝香って一応妻なんでしょ。公表されてなかっただけで、夫婦なら一番わかってるはずだし」
「葉月清奈が出てこないのも変。嘘なら真っ先に否定するでしょ」
「そうそう、昨日の時点ですぐ反応すべきだったのに、一晩待ったのは何で? トレンドが下がるのを待ってたとか?」
ごく一部には信じる声もあった。
だが大半はまったく取り合わない。
むしろ、必死に否定する姿こそ後ろめたさの表れだと受け取っていた。
